え、優しい奥様に、よく知りもしない禅の講釈などをしていた。私は彼女と別れて放浪中、偶然、古本屋で買った、「無門関」を愛誦《あいしょう》していた。その中でも、「百丈|野狐《やこ》」という公案が好きだった。それには、あのボードレールの、(あきらめよ、わが心、けだもの、眠りを眠れ)といった嘆声に共通したものがあるように思われた。いま、ここにその公案の全文を写してみよう。
百丈和尚、凡《およ》ソ参ズルツイデ一老人アリ、常ニ衆ニシタガッテ法ヲキク。衆人シリゾケバ老人モマタシリゾク。忽《たち》マチ、一日シリゾカズ、師ツイニ問ウ。面前ニ立ツ者ハマタコレ何人ゾ。老人イウ。ソレガシハ非人ナリ、過去、迦葉仏《かしょうぶつ》ノ時ニ於《おい》テ、カツテコノ山ニ住ス。因《ちなみ》ニ学人問ウ。大修行底ノヒト、因果ニ落チルヤ、マタナキヤ。ソレガシ答エテイウ。因果ニ落チズト。五百生、野狐ノ身ニ堕ス。今コウ。和尚、一転語ヲカエテ、ネガワクハ野狐ヲ脱セシメヨト。ツイニ問ウ。大修行底ノヒト、カエッテ因果ニ落チルト、マタナキヤ。
師イウ。因果ヲクラマサズ。老人、言下ニオイテ大悟シ、作礼シテイウ、ソレガシ已《すで》ニ野狐ノ
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