いたような、ただ本能の奴隷となる。私は再び、もはや、彼女と別れたくない気持。彼女が前に三度、外泊したというのは一度の誤り、それも銀座から帰る途中、リリーとふたりで輪タクの運転手と喧嘩《けんか》し、K町の交番に保護検束を受けただけ、分厚い札たばというのも、十日毎位の店の収入を、纏《まと》めてみただけという、彼女の話をなんでもかんでも信じたい気持になる。
また泥棒に入られる前夜、外泊したのは事実だが、それは国際文化社という歴《れっき》とした雑誌社の編集者で、男がふたりで、女は桂子ひとり。新橋の近くの待合で一夜を飲み明かし、指一本も触れさせなかった、という桂子の話まであっさり信じてしまう。その泥棒にしても、桂子がフラフラと出て、連れてきたのではなく、マーケットで一度、逢っただけの男が、彼女の家を探りあて、麻雀《マージャン》で夜明しした後でつかれているから休ませてくれ、とノコノコ上りこんできたのだという、桂子の話も信じる。そして、桂子に頼んで、アドルムを更に十錠。そのために心気ますます朦朧《もうろう》としてきて、桂子が酒を飲みましょうか、というのに、締切間近の仕事も忘れ、ふたりで近くの中華料理店に上りこむ。
そして熱い酒を飲みだすと、私はなにがなんだか分らなくなる、いっさいの恥も外聞も忘れ、まるで自制心がなくなる。散々飲んだり食べたりした後、その店に払う勘定がないと、店の子供を使いにやり姉を呼ばせる。姉はいちばん下の五つの女の子を連れ、やってきたが、私の醜態をみると泣いてしまったようだ。そして意見がましいことをいうのに、虎狼《ころう》のような心になっている私は、床の間の置物を掴《つか》んで、姉に投げつけようとした。
どうして姉の離れの十畳に帰ったかよく分らぬ。ただ煙草を買いにゆくと出た桂子のなかなか帰ってこないのが気になる。大学の試験を明日に控えている姉の長男を何度も、表に走らせ、桂子をみにやったが、どこにもいないという。それで私は大暴れ、妻の唯一の財産の箪笥《たんす》をひっくり返し、背広を着、オーバーを纏い、外出する仕度までしたが、まだ桂子が帰ってこないので、その場に大の字になり寝てしまう。そして寝小便までしてしまった塩梅《あんばい》。
ふと気がつけば、私は離れの十畳に寝ており、姉がかいまきをかけてくれている。桂子のハイヒールもハンドバッグも残っているが、すでに彼女が出て三時間にもなる。私は諦めて寝てしまう積り。姉の手からアドルム十錠、奪いとるようにして取り、それを飲んで、うつらうつら眠くなった頃。
突然、酔っ払った桂子が夜叉《やしゃ》のような形相で帰ってきた。私の顔をみるのもイヤだと言い、髪の毛をひきむしり、顔を打つ。そして新宿に帰るというが、もう終電車もなく、そんな桂子を表に出す気持になれない。それで姉の困りきった顔をみながらも、桂子をもう一晩、その離れに泊めようとする。しかし酔うと、酷薄無慙《こくはくむざん》な気持になる桂子は、そんな私の心づかいなど鼻で笑う。そして、近くに昔、知合いの立派な家があるから、そこに行きたいと言い張ってきかない。
私はそんなに言うのなら、そこにやるのもよかろうと思った。だが、ひとりでは不安なので、また姉の長男に警官を呼んで来て貰い、桂子を警官に送らせようとする。しかし警官の顔をみる頃から桂子は温和《おとな》しくなった。一通り、私の悪口を警官に喋《しゃべ》ってから、その部屋に寝ることを承知する。
朝、酔って乱暴したいつもの朝のように、桂子は、私の胸に泣き崩れてきた。肉体をかすかに揺動かす、彼女のテクニック。私は醜い哀れさに堪《たま》らなくなり、彼女に肉体の欲望があるかどうかを訊《き》く。「たまらないのよう」と彼女はなお身をくねらせ、その太股《ふともも》を私の上にのせる。また、病気になる。ペニシリン代一本二千三百円と頭にひらめく。その親切な医者の診察室でみせて貰った、いくつかの猛烈なジフリーズの写真。鼻が落ち、椿の花片のような痕《あと》が残る。両唇に無数の吹出物、殊に女の局部の一面にビランした惨状。しかし私はその写真を瞼《まぶた》に描きながら、女に身を任せる。済んだ後の、またかという悔い。
そこに七十三になる私の老母が泣き崩れ、半狂乱になり、呶鳴《どな》りこんでくる。とんでもないことをしてくれた。婿に対して面目が立たぬから、すぐに、ここから出て行って欲しい、という。アドルムの酔いの切れている私は、無意志の人形のようなもの。老母に叱られるまま、桂子と身仕度をして立ち上る。そこに姉の優しい泣声、「道ちゃん、いつでも帰っていらっしゃい。意志をハッキリさせてね」
姉は、私の桂子に対する本当の気持を薄々、知っているのだ。愛と憎しみの間。醜い哀れなものに対する、どうにもならぬ憐憫《れんびん》。私は
前へ
次へ
全11ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 英光 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング