すぐ考えて、それが如何《いか》にも、女性を穢《けが》す、許されない悪巫山戯《わるふざけ》に、思えたのです。
 ぼくの番になったら、美辞|麗句《れいく》を連ね、あなたに認められようと思っていたのに、恥《はず》かしがり屋のぼくは、口のなかで、もぐもぐ、姓《せい》と名前を言ったら、もうお終《しま》いでした。
 あなたの番になると、あなたは、怖《お》じず臆《おく》せず明快に、「高飛びの熊本秋子です」と名乗って着席しました。ぼくには、その人怖じしない態度が好きだった。
 それから何日、経《た》ったでしょう、ぼくはその間、どうしたらあなたと友達になれるかと、そればかりを考えていました。前にも言ったとおり、恥かしがりで孤独《こどく》なぼくには、なにかにつけ、目立った行為《こうい》はできなかった。
 ある夜、船員達の素人芝居《しろうとしばい》があるというので、皆《みんな》一等食堂に行き、すっかりがらんとしたあとぼくがツウリスト・ケビンの間を歩いていますと、仄明《ほのあか》るい廊下《ろうか》の端《はず》れに、月光に輝いた、実に真《ま》ッ蒼《さお》な海がみえました。と、その間から、ひょいと、あなたの顔が、覗いてひっこんだのです。ぼくは我を忘れ駆けて行ってみました。すると、手摺に頬杖《ほおづえ》ついた、あなたが、一人で月を眺《なが》めていました。月は、横浜を発《た》ってから大きくなるばかりで、その夜はちょうど十六夜《いざよい》あたりでしたろうか。太平洋上の月の壮大《そうだい》さは、玉兎《ぎょくと》、銀波に映じ、といった古風な形容がぴったりする程《ほど》です。満々たる月、満々たる水といいましょうか。澄《す》みきった天心に、皎々《こうこう》たる銀盤《ぎんばん》が一つ、ぽかッと浮《うか》び、水波渺茫《すいはびょうぼう》と霞《かす》んでいる辺《あた》りから、すぐ眼の前までの一帯の海が、限りない縮緬皺《ちりめんじわ》をよせ、洋上一面に、金光が、ちろッちろッと走っているさまは、誠《まこと》に、もの凄《すさ》まじいばかりの景色でした。
 ぼくは一瞬《いっしゅん》、度胆《どぎも》を抜《ぬ》かれましたが、こんな景色とて、これが、あの背広を失った晩に見たらどんなにつまらなく見えたでしょうか。いわばあなたとの最初の邂逅《かいこう》が、こんなにも、海を、月を、夜を、香《かぐ》わしくさせたとしか思われません。ぼくは胸を膨《ふく》らませ、あなたを見つめました。
 その夜のあなたは、また、薄紫《うすむらさき》の浴衣《ゆかた》に、黄色い三尺帯を締《し》め、髪を左右に編んでお下げにしていました。化粧《けしょう》をしていない、小麦色の肌《はだ》が、ぼくにしっとりとした、落着きを与《あた》えてくれます。顔つき合せては、恥かしく、というより、何も彼にもが、しろがね色に光り輝く、この雰囲気《ふんいき》のなかでは、喋《しゃべ》るよりも黙《だま》って、あなたと、海をみているほうが、愉《たの》しかった。
 随分《ずいぶん》、長い間、沈黙《ちんもく》が続いた後で、ぽつんとぼくが、「熊本さんも、高知ですか」と訊《たず》ねました。あなたは頷《うなず》いてから、「坂本さんは、高知の、どこでしたの」と言います。「いや、高知は両親の生れた所ですけれど、まだ知りません。ずっと東京です」「そう。高知は良い国よ。水が綺麗《きれい》だし、人が親切で」「ええ、聴《き》いています。母がよく、話してくれます。ほら、よさこい節ってあるんでしょう」「ええ、こんなんですわ」とあなたは、悪戯《いたずら》ッ児《こ》のように、くるくる動く黒眼勝《くろめがち》の、睫《まつげ》の長い瞳《ひとみ》を、輝かせ、靨《えくぼ》をよせて頬笑《ほほえ》むと、袂《たもと》を翻《ひるが》えし、かるく手拍子《てびょうし》を打って『土佐は良いとこ、南を受けて、薩摩颪《さつまおろし》がそよそよと』と小声で歌いながら、ゆっくり、踊《おど》りだしました。
 ぼくが可笑《おか》しがって、吹出《ふきだ》すと、あなたも声を立てて、笑いながら、『土佐の高知の、播磨屋《はりまや》橋で、坊《ぼう》さん、簪《かんざし》、買うをみた』と裾《すそ》をひるがえし、活溌《かっぱつ》に、踊りだしました。文句の面白《おもしろ》さもあって、踊るひと、観《み》るひと共に、大笑い、天地も、為《ため》に笑った、と言いたいのですが、これは白光|浄土《じょうど》とも呼びたいくらい、荘厳《そうごん》な月夜でした。
 しかし、その月光の園《その》の一刻《ひととき》は、長かったようで、直《す》ぐ終ってしまいました。それは、あなたの友達の内田さんが、船室の蔭から、ひょッこり姿を、現わしたからです。内田さんも、あなたの様子にニコニコ笑って来るし、ぼく達も、笑って迎《むか》えましたが、ぼくにとっては月の光りも、
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