》いて――)という、おけさの一節が、頭に浮《うか》びました。(泣いていながら主《ぬし》のこと)なにか訴《うった》えるものが欲しかった。自然《ネイチュア》よ! と眼をあげた刹那《せつな》、映じた風景は、むろん異国的ではありながら、その癖《くせ》、未生《みしょう》前とでもいいますか、どこかで一回は眺《なが》めたことがあるという感懐《かんかい》が、肉体を痺《しび》れさせるほど、強くおそいました。
みよ、この時、髣髴《ほうふつ》と迫《せま》ってくるものは、水天青一色、からりと晴れ、さわやかに碧い、みじんも湿《しめ》りッ気を含《ふく》まぬ、おおらかな空気のなかに、真ッ白い国が浮びあがってくる。夢《ゆめ》のような美しさだ。夢がこれほど実感を伴《ともな》って、みえたことはないというのは、オリムピックを通じての感想ではありましたが、それをこの時ほど、如実《にょじつ》に感じたことはありません。
白い国! 蜃気楼《ミュアジュ》もかくや、――など陳腐《ちんぷ》な形容ですが、事実、ぼくは蜃気楼《ミュアジュ》をみた想いでした。背後には、青空をくっきりと劃《かく》した、峰々《みねみね》の紫紺《しこん》の山肌《やまはだ》、手前には、油のようにとろりと静かな港の水、その間に、整然とたち並んだ、白いビルディング、ビルディング、ビルディング。それがいかにも、摩天楼《スカイスクレエパア》という名にふさわしく、空も山も、為《ため》にちいさくみえる豪華《ごうか》さです。その頭上に、七月の太陽が、カアッと一面に反射して、すべては絢爛《けんらん》と光り輝《かがや》き、明るさと眩《まぶ》しさに息づいているのです。ぼく達の大洋丸は、悠々《ゆうゆう》と、海を圧して、碇泊中《ていはくちゅう》の汽船、軍艦《ぐんかん》の間を縫《ぬ》い、白い鴎に守られつつ、進んで行きます。
しかし、実のところ、ぼくは鴎も船も港も山も、なに一つ覚えてはおりません。只《ただ》、青い海に浮んだ白い大都市が、燦然《さんぜん》と、迫ってきた、あの感じが、いつもぼくに、ある永劫《えいごう》のものへの旅を誘います。金門湾、桑港《サンフランシスコ》! と、ぼくは、昔《むかし》なつかしい名を口にして、そのときも、今、聞かされている意見より、もっと、悠久なものについて考えていました。清さんも、同じ種類の感動に襲《おそ》われたのか、ぼくに、「ほら、もう桑港
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