がい》したが、弱いのだから止むを得ません。ただ、半べそを掻《か》きつつ、「ひどいわ。意地悪」と叫んでいる内田さんに、たいへん愛情を感じました。
 しかし、それはその時に、沸《わ》き上がった感情です。あなたに対しては、心の中で、すでに、愛さなければならないという規範《きはん》を、打ち樹《た》てていたと思います。
 ホノルル・ブロオドウェイの十仙店《テンセンストア》で、ぼくは、紅《あか》のセエム革《がわ》表紙のノオトを買いました。初めて、米国の金でした買物、金五十仙|也《なり》。ぼくは、それをあなたとの、日記帳にしようと思って厭《いや》らしく、紅い色のものを買ったのです。しかし、それも後から憶《おも》えば買わなかったほうが、いや買ったにしても、なんにも書かぬ白紙《カイエブランシュ》のなかに、記憶《きおく》だけを止《とど》めておいたほうが、良かった結果になりました。

 翌月の午後は、個人外出を許され、船の出帆《しゅっぱん》時刻は、確か、七時でしたが、ひとりぼっちで歩いていても、面白《おもしろ》くなく、帰ったならば、案外また、あなたに逢えるかとも思うと、四時頃からもう帰船しました。
 午前中の甲板には、銭拾いの土人達が多勢、集まって来ていて、それが頂辺《てっぺん》のデッキから、真ッ逆様《さかさま》に、蒼い海へ、水煙《みずけむ》りをあげて、次から次へ、飛びこむと、こちらで抛《ほう》った幾《いく》つもの銀貨が海の中を水平に、ゆらゆら光りながら、落ちて行く。それを逸早《いちはや》く、銜《くわ》えあげたものから、ぽっかりぽっかりと海面に首を出し、ぷうっと口々に水を吐《は》きながら、片手で水を叩《たた》き、片手に金をかざしてみせる。とまた、忽ち猿《さる》の如《ごと》く甲板に攀《よ》じのぼってきては、同じ芸当を繰返《くりかえ》すのでした。その中に、ぼくは片足の琉球人《りゅうきゅうじん》城間《クスクマ》某《ぼう》という、赤銅色《しゃくどういろ》の逞《たくま》しい三十男を発見し、彼の生活力の豊富さに愕《おどろ》いたものです。
 然し、外出から帰ってみると、甲板には、もう土人達は一人もいず、その代りに第二世のお嬢《じょう》さんたちが、花やかに着飾って、まだ、あまり帰っていない選手達を取り巻いていました。
 真面目でもあるし、殊《こと》にフェミニストの坂本さんが、やはり、五六人のお嬢さん達に
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