すぐ考えて、それが如何《いか》にも、女性を穢《けが》す、許されない悪巫山戯《わるふざけ》に、思えたのです。
ぼくの番になったら、美辞|麗句《れいく》を連ね、あなたに認められようと思っていたのに、恥《はず》かしがり屋のぼくは、口のなかで、もぐもぐ、姓《せい》と名前を言ったら、もうお終《しま》いでした。
あなたの番になると、あなたは、怖《お》じず臆《おく》せず明快に、「高飛びの熊本秋子です」と名乗って着席しました。ぼくには、その人怖じしない態度が好きだった。
それから何日、経《た》ったでしょう、ぼくはその間、どうしたらあなたと友達になれるかと、そればかりを考えていました。前にも言ったとおり、恥かしがりで孤独《こどく》なぼくには、なにかにつけ、目立った行為《こうい》はできなかった。
ある夜、船員達の素人芝居《しろうとしばい》があるというので、皆《みんな》一等食堂に行き、すっかりがらんとしたあとぼくがツウリスト・ケビンの間を歩いていますと、仄明《ほのあか》るい廊下《ろうか》の端《はず》れに、月光に輝いた、実に真《ま》ッ蒼《さお》な海がみえました。と、その間から、ひょいと、あなたの顔が、覗いてひっこんだのです。ぼくは我を忘れ駆けて行ってみました。すると、手摺に頬杖《ほおづえ》ついた、あなたが、一人で月を眺《なが》めていました。月は、横浜を発《た》ってから大きくなるばかりで、その夜はちょうど十六夜《いざよい》あたりでしたろうか。太平洋上の月の壮大《そうだい》さは、玉兎《ぎょくと》、銀波に映じ、といった古風な形容がぴったりする程《ほど》です。満々たる月、満々たる水といいましょうか。澄《す》みきった天心に、皎々《こうこう》たる銀盤《ぎんばん》が一つ、ぽかッと浮《うか》び、水波渺茫《すいはびょうぼう》と霞《かす》んでいる辺《あた》りから、すぐ眼の前までの一帯の海が、限りない縮緬皺《ちりめんじわ》をよせ、洋上一面に、金光が、ちろッちろッと走っているさまは、誠《まこと》に、もの凄《すさ》まじいばかりの景色でした。
ぼくは一瞬《いっしゅん》、度胆《どぎも》を抜《ぬ》かれましたが、こんな景色とて、これが、あの背広を失った晩に見たらどんなにつまらなく見えたでしょうか。いわばあなたとの最初の邂逅《かいこう》が、こんなにも、海を、月を、夜を、香《かぐ》わしくさせたとしか思われません。ぼく
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