ぼくはリエの思い出も忘れてしまいたい。だが彼女に、「さようなら」するのは、肉親友人たちとの場合より、呆れるほど苦しく、長い努力を必要とすることだった。
「さようなら」(左様ならなくてはならぬ運命である故、お別れします)との哀しい日本語。こうしてぼくは三十七歳の今日まで、幾度か何人かの親しい人たちに、「さようなら」してたのが、そろそろ、ぼく自身、この世に、「さようなら」する順番となったようだ。その方法は必ずしも自殺、出家遁世の形を採らなくてもよい。否、意識的に「さようなら」しなくても、いまのぼくは嘗ての川合がそうだったように、生きながら死んでいるみたいな実感がある。西行、宗祇、芭蕉というより、むしろ彼らの小亜流たちが無常の強さ哀しさ孤独さに支えられ、生きた屍として一生を漂泊した、それが全て全国行脚とか草庵生活ばかりでなく、外見まじめな勤番侍とか逆に、旗本の二男坊の無頼な生活の中にも見出されるのを思う。例えば勝海舟の父、夢酔軒勝太郎左衛門小吉の回想録の美しさも死者の眼で生の世界を眺めている哀しさがあるからだ。
思えばぼくはいつの間にか死んでいる。多病で現実世界の恐怖を避け、ロマンの世界に逃げた幼時からだろうか。それとも、科学、人類の未来、最大多数の幸福を信じた共産主義の運動から再三、脱落した恥かしさからだろうか、戦争を止めさせる努力をなに一つしなかったばかりか、中国の侵略にかりだされ、進んで快感にかられ中国兵を殺し、良民をいじめ、戦友たちを見殺しにしてきた当時にであろうか。肉親たちの別離さえ厭がり認めようとせず、亡父にさえ未だ「さようなら」を告げていないほど厳粛な死の世界を無視してきた為、ぼくは反対に生者の権利も知らぬものだろうか。或いは自己愛の強烈なばかりに妻子も愛人も惜別の予感がなくては、愛し続けられぬぼくのエゴチズムによるものだろうか。
とに角、ぼくの精神の中でいつの間にか、なにか崩れ毀れている。生者に必須な平衡とか統一の観念が失われている。ぼくは改めてこの世に、「さようなら」をいう積りだったのに、云い出そうとして既に、自分が知らぬ間に、最早、「さようなら」を告げているのに気づいたのだ。なんという苦しさ、或いはバカバカしさだろうか。「さようなら」(そうなるべき運命でした)。
イヤダ。せめて、(また逢う日まで)との祈りの含まれた日本語が別離の言葉になって欲しい。日本でも方言としては、「またごんせ」とか大切にとかいった意味の別れの言葉が多いようだ。しかし代表的な別離をいう日本語が、「さようなら」だけに限られていることは、日本の死者のひとりとして遣切れぬ思いで抗議したい。「さようなら」と白々しく片づけられては浮ばれぬ。
どんな死者でも自分の愛する人たちにいつか逢えないかと、ひそかな願いをもち、墓の片隅に眠っている筈だ。マレエ語では別離の挨拶に、出てゆくひとが、「スラマトテンガル」(この地にとまることに幸福あれ)といい、送るひとは「スラマトジャラン」(旅ゆく人に幸福あれ)との言葉を送るとかきいた、日本でも万葉時代にはこうした素朴な別離の言葉があったのだろう。(幸《さき》ありませ)との一句を相聞、覊旅《きりょ》の歌の処々にみうけた気がするし、「われは妹想う、別れきぬれば」の感慨に、ぼくは単純卒直な惜別の哀愁を感ずる。
それに比べ、「さようなら」は冷たすぎる。別離の日本語としてこれを廃止し、新しい言葉を発明しよう。ぼくはそんな目的で、この小説を書きだしたのではない。「さようなら」という日本語の発生し育ち残ってきた処に、日本の民衆の暗い歴史と社会がある。まだ、当分「さようなら」の一語は日本人に使われ続けるだろう。それだけの内的必然がある。その遣切れぬ哀しさに、ぼくは自分の親しい人たちに「さようなら」してきた追憶を絡ませて、みたかったのだ。ぼく自身が矛盾、前後撞着、相反感情をバラバラに抱き得る、例の生者には不可解な分裂症患者に似た者のひとりの実感は自明の理、殊更、特筆大書する必要はなかったのである。
他の精神病は全て、常人の異常さを量的に多く持っているだけだが、分裂病は質的に違い、普通人に理解もできぬので、この患者を一病理学者は、「すでに生きた屍」と批評している。分裂症ははじめ世の中や他人に無関心になり、自分だけを愛する。それも自分の性器を愛し、次に自分の不潔な排泄物を熱愛する。糞尿さえも外に棄てぬようにし、一度だしたものは宝物みたいに包んで大切に保存する。唾でさえ口中に腐り悪臭が発しても吐きだすまいとする。こうしたフロイドのいう黄金崇拝を伴なう小児、動物的生存状態に続いて、植物的生活がやってくる。樹木の枝がひとに曲げられると、そのまま曲がりっぱなしになる如く、この患者も、ひとから腕を曲げられると決して自分で伸ばそうとしない。この病気は現在でも病源が判らず不治とされている。患者は一進一退の後、こうして植物の如く生きながら次第に、頭の先から立ち枯れてゆくのだ。
ぼくは自分の死者との実感から、この病者に惹きつけられる愛情と反撥する憎悪を同時に感ずる。彼らこそ、その病気に自然に移行しながら、いつの間にか人生に、「さようなら」していて、病人となってからは、いつ死んでも同じなのだ。彼らは精神病院の一室で誰の邪魔もせず、邪魔にもされず、呼吸して食事し眠って起き、その中ひとに知られずふいと死ぬ。ぼくはそんな彼らを堪らぬと嫌いながらも、既に死んでいる点で共感し憧がれてもいるのだ。彼らでさえ、現実にはっきり、「さようなら」をいうのを拒否しているのが小気味よくもあるのだ。自分では不合理、非論理と思うが、ぼくは自分を使者と信じながらも、実は未だ生の世界に「さようなら」をいいたくない。ぼくは今でもふいと耳に、ボレロの如き明るく野蛮な生命のリズムが鳴り響き、晴れて澄んだ初秋の午後、アカシアの花が白く咲き芳しく匂う河岸、青い川面に白いボオトを浮べ、自分の心や身体を吸いよせ、飽和した満足感で揺り動かし、忘我の陶酔に導いてくれる、そのひとを前にし、軽くオオルを動かしている幻想のよみがえる時がある。例の神を涜した為、未来|永劫《えいごう》にわたり幽霊船の船長として憩いの許されぬ“さまよえる和蘭人[#「さまよえる和蘭人」に《フライング・ダッジマン》のルビ]”でさえ、女性の無償の愛が得られれば許されるという中世紀伝説があるのだ。だから中世紀敗戦日本の安っぽい、勝手に死者を気取ったぼくが未だに、こうした伝説に憑かれ、またの日、もう一度、そうした日があり得ることを秘かに信じ、その時に自分の復活があると、待望するのも可笑しくないだろう。
(ではその日まで、さようなら。ぼくはどこかに必ず生きています。どんなに生きるということが、辛く遣切れぬ至難な事業であろうとも――。)
[#30字下げ](一九四九年一一月)
底本:「別れのとき アンソロジー 人間の情景7」文春文庫、文藝春秋
1993(平成5)年3月10日第1刷発行
底本の親本:「現代短篇名作選2」講談社文庫、講談社
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:寺澤昌子
校正:伊藤時也
2000年3月16日公開
青空文庫作成ファイル:
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