うと努力し少しも泣けなかった。悲哀よりも恐怖が強かったのだ。
中学の卒業直前、ぼくは井上という友人に突然「さようなら」された。井上は、後家になった母が、藤沢の町に小さい雑貨屋を営んでいたひとり息子で、内気な平凡な性質。五年になる迄は学業もスポオツもこれといって頭角をぬくものがなく、すべて中等の出来だったのが、五年に進級して間もなく、数学に抜群の成績を示し、先生やぼくたちを驚嘆させた。ぼくの中学はスパルタ教育で天下に名高く、毎週土曜の午後、全校をあげ数マイルのマラソン競走をさせられる行事があり、そうした多人数との競走や、息の苦しい数マイルのマラソンは思っただけでも先に参ってしまうぼくは、大抵、落伍者や見学者の常連のひとりで、その時も、校内に立ち、ぼんやりみんなの走り帰るのを待っていると、いつもの優勝者、剣道二段で陸上競技部の主将をしている伊沢の代りに、小身痩躯の井上が、予想を裏切り、学校の記録を破るスピィディな余裕|綽々《しゃくしゃく》の走り方で先頭に立ち、帰ってきた。白いランニングの胸を張り、軽快に白足袋《しろたび》を走らせ、熱いものでも吹くような工夫された規則的な息使い。
ぼくは奇蹟でも眺めたように苦しいほど驚いたが、それから一カ月しない中に、二、三日、休んでいた井上が死んだと先生から聞かされ、一層、苦しい驚愕を感じた。井上が死の直前、そのように学業スポオツに頭角を現わしたのが、彼から突然、「さようなら」されてみるとひどく空しい詰らぬことのように思われたのである。
続いて大学時代。ぼくは川合という文学の友達から肺病で、「さようなら」され、池田という同じ非合法運動の友人には、ぼくたちの恥かしい転向の際、剃刀で彼自ら右手首の動脈を切り温湯につけるという、暴力的方法で、「さようなら」された。順序からいえば池田のほうが先で、学部一年の時だった。池田は良心的なコミニストだったが、ぼくのように大男で、同じように臆病な欠点があった。大男の為ひと一倍、他人の視線を感じキョトキョトするのが、ぼくたちの非合法運動――といっても週に一度、読書会をやり、その席上アカハタを配り金を集め、出席している党のひとにその金を渡す程度――を大袈裟に自覚していたので、余計ひどくなっていたのだ。彼はただ新宿に映画を見た時、眼つきが怪しいとの理由で、駅頭に張っていた特高に掴まった。ポケットに築地の切符の切端しが残っていたので、豚箱に入れられ、ワセダの下宿先を捜査されると、始末してなかったアカハタが一部出てきた。
その為、彼は淀橋、戸塚と二つの警察を二十九日間宛のタライ廻しを食い、毎日のように拷問されたが、自分のルウズさから友人に迷惑をかけまいと、歯を食いしばり、知らぬ存ぜぬで頑張り続け、義兄の弁護士の奔走で、約二カ月目に釈放されたが、その日すぐ学校に出てきて、ぼくたち仲間と、微笑と涙の握手、談笑を交していながら、その夜、下宿の一室で前述のようにして自殺したのだ。ぼくは相不変、死体をみるのが厭で苦しかったが、この時は他の友人たちの手前、わざと嫌いな蛇を掴んでみせるような気持で、彼の死体の置かれた部屋に駆けつけていった。池田は一番苦痛のない死に方を選び、大量の睡眠剤を飲んだ上、金盥《かなだらい》に温湯を入れ、そこに動脈を切った手首を入れたものらしい。全身の血がしぼり出されたように、血は金盥を越え畳一面に染みていた。その代り白蝋のように血の気のない彼の死顔は放心した如くのどかにみえた。だがぼくは彼の死魚のような瞳の奥に、死への焦燥と恐怖を認め、やはり死体へのどうにもならぬ嫌悪があった。その遺書には睡眠剤が利いてきてからのものらしく、シドロモドロに乱れていてこんな意味のことが書いてあった。
(科学を信ずれば世界が平和な共産主義聯邦になる必然性があるのと同じ確かさで、いつか太陽も冷却し地球も亡び、人類も死に絶えると信ぜられる。結局、滅亡する運命の人類の為、ユウトピアを作ろうと犠牲になることは無意味である。即ち生きること自体が無意味と思われるから自分は死ぬ)
ぼくは女のひとの愛情の楽しさ苦しさも知らずに、二十二歳の若さで死んだ池田をバカ野郎とも可哀想とも思ったが、彼のつきつめた誠実さに、自分の放恣《ほうし》な生き方が邪魔されるのが厭で、彼の自殺もできるだけ忘れるよう努力した。ぼくは池田や自分の政治的な理想にあっさり、「さようなら」を告げ、自分の生きる目的を文学の世界に見出そうとしたのだ。例えば夕方、子供たちが、「さようなら」と叫びあい、後をもみずに自分たちの家庭に帰り、そこで今迄の遊び仲間のことなど、夢にも思わず、晩御飯や兄弟喧嘩や漫画の本に熱中できる単純さで、ぼくはその時、政治や昔の同志に向い簡単に自我的な「さようなら」をいえたのである。
処で川合という胸を病んでいた新しい文学の友人は、はじめから近く自分の死ぬのを予感していた。彼はルパイヤットの詩人が、(ぼくたちは人形で、人形使いは自然。それは比喩でない現実だよ。この席で一くさり演技がすめば、ひとりずつ無の手箱に入れられるだけさ)と歌ったような無常観に安住しながら、自然を少女を文学を、彼岸のものとして美しく眺めていた。川合は既に自分を亡霊扱いにしていたので、ぼくたちも彼を別の世界のひとのように遠くからいたわって、つきあう他はなかった。川合はぼくたちに黙って、何度となく血を吐き、死期が迫るとこっそり田舎に帰って死んでしまった。ぼくはそんな彼に最後まで、「さようなら」を云えず、彼もぼくたちに、「さようなら」をいわず、永遠に別れることとなった。それ故、ぼくは十五年後の今でも、ふッと川合が生きていて、そのスラリとした長身に青白い童顔を微笑させ、ぼくの前に出てきて、「死んでしまった癖に、生きている世界を散歩してみるのも愉しいもんだよ。空の蒼さ。木の葉の青さ。花の紅さ。ピチピチした少女。ただ急がしそうな中年の勤め人。みんな生きているのには意味があるんだ。生きているというだけで死者の眼からは全て美しく見えるんだよ」と卒直な感想を語りそうな錯覚がする。
大学を出てやっと就職したかと思えば、昭和十二年、日本軍閥の中国に仕向ける侵略戦争はとめどがなくなり、ぼくも補充兵として召集を受け、半年足らず原隊で人殺しの教育を受けてから北支の前線に引張りだされた。その頃から日本人は肉親、友人、愛人とやたらに「さようなら」を云い合うようになったのだ。日本人の戦争道徳は(生きて帰ると思うなよ)である。出征の際、(また逢う日まで)を祈る別離の言葉なぞとんでもない。どうしても、(左様なる運命だからお別れします)の「さようなら」がいちばんふさわしい。その上、女のひとだと、「さようなら」に「御免下さい」をつけ加える。(そうした運命になったのをお許し下さい)と強権に対し更に卑屈に詫びているのである。まるで奴隷の言葉と呆れるより他はない。
ぼくたちはそうした奴隷の言葉に送られた、奴隷の軍隊としての惨虐性を中国において遺憾なく発揮した。「グッドバイ」の意味する如く、神を傍らに持たず、中国語の、さよなら「再見《ツァイチェン》」の意味する、愛する人たちとの再会の希望もない軍隊は、相手の人間をいたずらに傷つけ殺し軽蔑し憎悪することで、自分たちの高貴な人間性も不知不識に失なっていた。ぼくたちは、中国兵の捕虜に自分たちの墓穴を掘らせてから、面白半分、震える初年兵の刺突の目標とした。或いは雑役にこき使っていた中国の良民でさえ、退屈に苦しむと、理由なく、ゴボウ剣で頭をぶち割ったり、その骨張った尻をクソを洩らすまで、革バンドで紫色に叩きなぐった。
ぼくは山西省栄河県の雪に埋もれた城壁のもとに、素裸にされ鳥肌立った中年の中国人がひとり、自分の掘った径二尺、深さ三尺ほどの墓穴の前にしゃがみこみ、両手を合せ、「アイヤ。アイヤ」とぼくたちを拝み廻っていた光景を思い出す。トッパと綽名《あだな》の大阪の円タク助手出身の、万年一等兵が、岡田という良家の子で、大学出の初年兵にムリヤリ剣つき鉄砲を握らせ、「それッ突かんかい、一思いにグッとやるんじゃ」と喚き散らし、大男の岡田が殺される相手の前で、同様に土気色になり眼をつぶり、ブルブル震えているのを見ると、業をにやし、「えエッ。貸してみろ。ひとを殺すのはこうするんじゃ」と剣つき鉄砲を奪いとり、細い血走った眼で、「クソッ。クソッ」出ッ歯から唾をとばして叫び、ムリに立たせた中国人の腹に鈍い音を響かせ、その銃剣の先を五寸ほど、とびかかるようにして二、三度つきとおした、中国人は声なく自分の下腹部を押え、前の穴に転げ落ちる。ぼくは鳥肌立ち、眼頭が熱くなり、嘔気がする。(さようなら。見知らぬ中国人よ、永久にさようなら)
ぼくは共産八路軍と交戦し、勇敢な十四、五の少年の中国兵を捕えたことがある。精悍《せいかん》な風貌をした紅顔の美少年。交戦中の捕虜は荷厄介として全て殺してしまうぼくたちも、彼の若い美しさを惜しみ、荷物を持たせる雑役に使うことにした。しかし彼は飽迄も日本軍への敵意を棄てず、ぼくたちが黄河河畔の絶壁の上を喘ぐように行軍していた際、突然、荷物を棄てると、その絶壁から投身自殺した。数千年の風雨に刻まれた高さ三千丈もある大地壁。顔を覗かせただけでも、下から吹きあげる冷たい烈風、底に無表情に横たわる水のない沼土までの遠さなぞに竦み上がる崖上から、十四、五の少年中国兵が鳥のような叫声をあげ、鳥のように舞い降りたのだ。幅僅か二間あまりの癖に眼くらむほど深い地隙には、絶えず底から烈風の湧く強い空気の抵抗があったから、少年の肉体は風に吹かれる落葉のように揺れながら落ち黒い点となり、眼下の褐色の沼土に吸いこまれていった。ぼくは彼のそうした死に方に、人間に飼われるのを拒否して自殺する若鷹に似た壮烈さを感じ、その黒い一点となった少年の後姿に心の中で、ただ「さようなら」を叫んだ。(そうなる運命なのだ。少年よ、仕方がない。では左様なら、御免なさい)
その前後、ぼくはこうした許しを含んだ、「さようなら」との別離の言葉を多くの中国人や自分の戦友たちにさえ告げた。ぼくは幾度か一線で対峙《たいじ》した中国兵に、上官の気を損ねまいと、正確な射撃を送り、四人まで殺し、十人ばかりの人々を傷つけたが、その戦闘後、自分の殺した生温かい中国の青年の死体の顔を、自分の軍靴で不思議そうに蹴起しながら、いつも、「さようなら」とだけは心中に呟くことができた。(ぼくの手がその青年を殺したのではなく、戦争という運命が、その青年を打ち倒した)との諦感からである。例えば惜別の言葉として、「オォルボァル」とか、「ボンボワィァジュ」といえるフランス人たちは、戦争を天災に似た不可避の運命と信ぜず、ナチ占領下も不屈の抵抗運動を続けられたのだが、愛する人々との別れにも、「さようなら」としかいえぬ哀れな日本民族は、軍閥の独裁革命に対し、なんの抵抗もなし得なかった。
本来ならそうした抗戦運動の指導者になる筈の知識人たちが、日本の場合は隠遁的ポオズだったり反って軍閥の走狗《そうく》となった例が圧倒的に多い。その為、ぼくたち日本の知識階級の未成年はお先真暗な虚無と絶望と諦めにおとし入れられていた。彼らの中にも狂信的な愛国主義者になり切ったものがいたが、そんな青年たちでさえ、助かる程度の戦傷を受けた際は勇ましく、「天皇陛下万歳」を叫び、瀕死の重傷の場合は弱々しく、「お母さん。さようなら」とだけ呟くのを眺め、ぼくには奇妙な笑いと怒りを同時に感ずる苦しさがあった。
前述の岡田という初年兵。彼の父は京都の美術商で、ニュウヨウクにも支店があり、彼は独りだけの男の子として愛せられ、父に連れられアメリカに遊びにいった思い出もあり、京大のラグビイ選手として抜群の体力や明晢《めいせき》な頭脳にも恵まれていたのが、前線の惨忍な厳しい雰囲気になじめず、見ている間に痩せおとろえ精神まで異常に衰弱していった。ぼくは終始、自分の後輩のような親愛感で行軍の時も岡田と並んで歩き、学生時代の楽しい追憶を、ヤキモチ焼きの髭ッ面の分隊
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