。日本でも方言としては、「またごんせ」とか大切にとかいった意味の別れの言葉が多いようだ。しかし代表的な別離をいう日本語が、「さようなら」だけに限られていることは、日本の死者のひとりとして遣切れぬ思いで抗議したい。「さようなら」と白々しく片づけられては浮ばれぬ。
どんな死者でも自分の愛する人たちにいつか逢えないかと、ひそかな願いをもち、墓の片隅に眠っている筈だ。マレエ語では別離の挨拶に、出てゆくひとが、「スラマトテンガル」(この地にとまることに幸福あれ)といい、送るひとは「スラマトジャラン」(旅ゆく人に幸福あれ)との言葉を送るとかきいた、日本でも万葉時代にはこうした素朴な別離の言葉があったのだろう。(幸《さき》ありませ)との一句を相聞、覊旅《きりょ》の歌の処々にみうけた気がするし、「われは妹想う、別れきぬれば」の感慨に、ぼくは単純卒直な惜別の哀愁を感ずる。
それに比べ、「さようなら」は冷たすぎる。別離の日本語としてこれを廃止し、新しい言葉を発明しよう。ぼくはそんな目的で、この小説を書きだしたのではない。「さようなら」という日本語の発生し育ち残ってきた処に、日本の民衆の暗い歴史と社会がある。まだ、当分「さようなら」の一語は日本人に使われ続けるだろう。それだけの内的必然がある。その遣切れぬ哀しさに、ぼくは自分の親しい人たちに「さようなら」してきた追憶を絡ませて、みたかったのだ。ぼく自身が矛盾、前後撞着、相反感情をバラバラに抱き得る、例の生者には不可解な分裂症患者に似た者のひとりの実感は自明の理、殊更、特筆大書する必要はなかったのである。
他の精神病は全て、常人の異常さを量的に多く持っているだけだが、分裂病は質的に違い、普通人に理解もできぬので、この患者を一病理学者は、「すでに生きた屍」と批評している。分裂症ははじめ世の中や他人に無関心になり、自分だけを愛する。それも自分の性器を愛し、次に自分の不潔な排泄物を熱愛する。糞尿さえも外に棄てぬようにし、一度だしたものは宝物みたいに包んで大切に保存する。唾でさえ口中に腐り悪臭が発しても吐きだすまいとする。こうしたフロイドのいう黄金崇拝を伴なう小児、動物的生存状態に続いて、植物的生活がやってくる。樹木の枝がひとに曲げられると、そのまま曲がりっぱなしになる如く、この患者も、ひとから腕を曲げられると決して自分で伸ばそうとしない。こ
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