ベもなくさっき自分を断ったあの職工頭の顔だった。なんともいえぬ厳粛《げんしゅく》なものが彼の胸を打った。命にかかわるようなひどい怪我ではありませんように――彼は祈るような気持で丁寧《ていねい》に山田の頭を調べた。血は出ていない、骨が砕けている様子もない。どうも強く打たれたために気を失っているだけのことらしい。よかった、よかった。――と、彼は右足で足場をさぐり、左足を立て、そろそろ腰を浮かしはじめた。見ている人たちは今度はぐっと息をつめた。一男は真直《まっすぐ》にたってからゆっくり向《むき》をかえた。静かに静かに、梁のゆるぎを殺しながら、もと来た方へ引きかえす。進む時よりも気を配っている様子だ。右手をのばした。大支柱のところまでもう二三歩だ。ああ、抱きついた。彼の右手はしっかりと支柱を抱きかかえたのだ。そして、一男ははじめて皆の方を見下して、手を振った。恐しいような歓呼《かんこ》があがって、すぐやんだ。一男が猶予《ゆうよ》なく次の仕事にとりかかったからである。
 だが、あとの仕事は楽だった。重々しく揺れまわっている鉄梁《てつりょう》には難なく引綱が結びつけられた。そして一男は残った綱のたまを、監督を中心に群がっている人たちの真中へ手際よく投げ下《おろ》した。何十本かの手が夢中でそれをつかんだ。これで引綱が完全につけられたわけだ。鼻づらは、真《まっ》すぐ落ちても差支《さしつか》えのない場所へ静かに引きよせられた。
 大きなバケット(桶《おけ》)をさげた起重機がぐうっと上って来て一男の鼻さきでとまった。彼がひょいとそれに乗りうつると、今度はバケットが梁にしばりつけられた怪我人のそばへ寄って行った。もう危険なふらふらした鎖につられた鉄材がわきへのけられていたから平気でそばに寄れるのである。一男の手は風のように早く動いて職工頭をしばってある細引《ほそびき》をほどいて、そのぐったりした体を両腕で抱いた。体の重さで、彼はバケットの中でよろめいた。起重機はすぐにバケットをぐうっと上へ持ちあげ、ゆるく右の方へ廻転しはじめた。
 その時、今まで職工頭をのせていた梁は支えきれなくなって、がらがらとあっちにぶつかりこっちにぶつかり、真逆様《まっさかさま》に墜落して行った。見ている人たちの髪の毛はさか立った。
 二人を乗せたバケットが自分等の前までさがって来た時、監督をはじめ板張《いたばり》
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