アーニイ・パイルの前に立ちて
小林一三
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ネオンの中に明滅する追憶
私は、「アーニイ・パイル」の横文字が、淡い、うす緑の五線紙型ネオンサインの色彩の中に明滅するのを、ジッと見詰めていた。眼がしらが熱くうるおいそめて、にじみ出して湧いてこぼれて来る涙を拭く気にもなれない。誰れも見て居らない、泣けるだけ泣いてやれ、という心持ちであったかもしれない。私は、頬のあたりまで持っていったハンカチを再び下げて、唇を押えたまま、暫らくジッと佇んで居ったのである。
『何という綺麗な、立派になったことであろう』掃除の行届いた劇場前の人道は水に洗われて、並木の黒い影は涼風にうごいて居る。私がこの劇場を支配しておった頃は、並木の一、二本は必ず枯れたり、ぬき取られたりしていた。碁盤目のブロックには凹凸があり、欠けて掘り出されたままに放置されていたり、砂煙が低くつづいて舞うなど、その頃の光景を思い浮べて、空虚な、敗戦気分の意気地ないというのか、我ながら、心はずかしく憂鬱ならざるを得なかったのである。
東西廻り階段の入口から、硝子戸を透して正面広間の紅い絨氈は、煌々と輝いている。軽い口笛と靴音と、ステップをそろえてのぼりゆく三々五々の米兵を限りなく吸い込むこの大劇場は――誰れが建てたのか、誰れでもないこのオレが建てたのだと、負惜しみのような、うぬ惚れのような、悲哀な快楽がムクムクと胸の底を突くと、心臓がいささか高なる、呼吸が迫るようになると、セセラめく微苦笑が浮んでくる。同時に、せめてもの慰みというのであろうか、昂然として、私には想像の自由が許されている、何人にも許されている、と、その意識的態度は俄かに濶歩となって、数十歩帝国ホテル側へ、数十歩有楽座側へ、靴音高く、ゆきつ戻りつ、アーニイ・パイルのネオンを見上げながら、私の空想は若い時代の夢を回顧せざるを得ないのである。
五線紙型のネオンサインを、東京宝塚劇場の屋上高くかかげて、ドレミハソラシドの音律を、省線の電車の窓から、数百万の青年子女に唄わしめんとした私の計画は、新聞紙の広告をはじめとし、あらゆるポスターに楽譜の輪郭を描いて、宝塚を象徴せしめたのである。可愛いい音楽女学生は、その楽譜を読みながら唄う。
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『希望は遠し武庫の川
流はつきじ永遠に
水玲瓏の粋をくむ
われ等は乙女一途に
歌劇の国の宝塚』
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私はこの、ソソミドソラソ。ラシドシラレミレの校歌を、電車に乗合せて聞いた時ぐらい嬉しかったことはない。同時に、それはやがて、帝都の中心地点丸の内に、東宝芸能本陣を組織的に大成せしむる確信を得たるのみならず、それを実行せしめ得たのである。その最初の鋤跡は、実に「アーニイ・パイル」である。
アーニイ・パイルの教訓
この劇場の荘麗華美なるに対して、有楽座から日比谷映画劇場、喫茶カテイ、名物食堂にいたる東宝系一帯の地域が、如何に陰惨な、汚穢な塵溜めのような、掃除の行届かざるを実見して、親の心、子知らずと言うべきか、何という無神経であるかと口惜しく思うのみである。
この破壊された戦災地のあとには、仮小舎がそれからそれへと新築されて、まばゆき電灯のにぎやかな店かざり、あつものの香り、食欲をそそる見本品、奥より漏るるレコードは『林檎は何も言わないけれど、リンゴの気持はよくわかる、リンゴ可愛や可愛やリンゴ』……レコードに合せて流行唄を歌いながら歩く若い人達によって、賑う街の中に、我関せず焉として、焼残った東宝系の建物のみは暗闇である。
もと日東紅茶の店は、進駐軍の図書室として花やかに輝く時、筋向うの喫茶カテイの洋館四階建は真暗である。四ツ角五階建名物食堂も真暗である。自力で無い、他人様のおなさけで、インフレ景気に有頂天になっている東宝には、その内部から他力本願の虚を衝いて、赤化を夢みる幻影が、スクリーンに映されんとしている。しかしながら、彼等は必ずや「アーニイ・パイル」の行届いた経営方式に驚倒し、その後塵を嘗めて、よちよちながらも学ばんとするに至るであろう。
労働争議というがごとき、生々しい事実を取上げて、東宝を訓戒せんとするがごときは、私の目的ではない。聞くところによれば、この「アーニイ・パイル」なる名称は、労力に酬ゆる正当なる報酬であり、勲功に対する名誉の表彰であり、大衆の支持を象徴する公平なる結論であるという話である。
果して然らば、我等の東宝において、アーニイ・パイルの記念すべき名称を、東宝劇場の軒頭に掲げるに至ったことは、偶然の教訓的指示であるかもしれない。私はここにおいてアーニイ・パイルについて語るであろう。
「アーニイ・パイル」は太平洋戦争に参加したる米国一新聞の青年記者の姓名である。彼は不幸にして海戦のさ中に戦死した。然し、彼の綴れる通信記事は、全米を風靡して好評を博したのである。米国各新聞社から派遣せられた数百名の記者によって、送られたる通信記事の内容は、その冒険を競い、その敏捷を争い、その独自性をほこり、或は又美辞麗句、奇抜であり、意表に出ずる等々千差万別の裡にあって、彼は終始一貫、兵士と苦楽を共にしつつその兵士の行動、その生活、その信念、あるがままの本質と、真の姿をあらゆる角度から書いて、故国の同胞父兄に報告したのである。
その報告記事は、酒のごとく強くもなければ、香りも無い、酔うことの嬉しさも、眠ることの楽しみもない。しかし、酒は興味のある人、無い人、嗜む人、嫌な人もある。水に至っては、淡々として無味、何人も手を放すことの出来ない必要品であるごとくに、彼の通信は待ちこがれる水であったのである。恐らく太平洋戦争に参加したる陸、海、空、各方面綺羅星のごとき将官の数は数万人にのぼったであろう。そして、輝かしい戦功にともなう物語は、読者をして充分に満足せしめたであろう。然しながら、その数量において、上長官は兵士軍属の何十万分の一にすぎないのである。米国国内に於ける出征軍人の消息を待ちこがるるその家族の数も亦然り。即ち、その大多数を満足せしめたる青年記者アーニイ・パイルの通信は、米国大多数の出征家族をして感謝せしめ、礼讃せしめたのである。流石に民主主義の本家である米国としては、最大多数によって感謝せられたる代表的新聞記者としてのアーニイ・パイルを表彰すべく、この劇場に命名したることは、わが国のごとき一将功名成って万骨枯るるを怪しまざる官尊民卑の風習に対して、善い教訓であると思うのである。
老いの繰り言
私はいろいろの方面から「アーニイ・パイル」の感激に刺戟されつつ、それからそれへと、連想を逞しうしつつ、日比谷の交叉点に出たのである。交叉点の一角を占有している千四百余坪に上る空地に、私の計画した東宝文芸会館の構想は、今や青写真の残骸となって、書斎の一隅に永久に眠っている。
上野の公園における各種の展覧会や、図書館や、凡そこの種の文化的施設を、市井の中心地にあって市民の生活と密接に終始すべき理想により、この地を選んで新築せんとしたのである。日支事変のために、その計画を中止したのみならず、東京電灯に帰すべきその用地の大半は、航空会社に徴用され、辛うじて三角尖端の枢要地六百余坪を所有しえたるも、これまた戦局の進展とともに航空会社に包容せらるるにいたって、私の空想は一場の夢と化し終った。
その用地の境内に立って、日比谷公園から宮城方面の暮れゆく夏の夜の黒い樹木の上には、折柄片破れ月が澄みきった星空に光っている。右隣にそびゆる第一生命の白亜館が、浮き城のように巍然として輝いているのを見上げながら、ここが連合軍の司令部であり、わが国に平和を与えた救いの神マッカーサー元帥の事務所であることに敬意を表する。
第一生命のこの建物は、旧社長矢野翁心血の結晶であって、この戦争に巻込まれなかったならば、恐らく世界における有数優秀保険会社の一つとして、わが国の誇るべき大会社であったのである。私は、かつてこの会社の重役の一人として多年出入した関係から、この内部の堅固さと壮麗さとに対しては満足して居ったのであるが、マッカーサー元帥がこれを使用して以来、更に一層綺麗になったという話をきいて驚いたのである。
『我々は綺麗だとか、清潔だとかについて、限度の無いことを知らなかった。綺麗、清潔と言うても凡そ事務所の建物としては、ある程度の標準で満足して居ったのであるが、マッカーサー元帥司令部の掃除というものは、徹底的で、我々の考えとは天地の差があるのに驚いた。毎日毎日、一日も欠かさない、各階の掃除にはそれぞれ専門の軍人がいる。それも尉官級、佐官級であるらしい。そして各階の責任者が一応掃除のすんだことを報告すると、その上長官の一人が、更に全部を一巡して検視するのであるから……』
と、いう話を、石坂社長から聞いて、その学ばねばならぬことの多々益々多きを感ぜざるを得ないのである。
その綺麗さと、掃除の行届いたことと、ここにもまた眼の前、鼻の先に開展した好個の対照物について、私は老いの繰り言を、こぼさざるを得ないのである。それは東京会館と帝国劇場とである。
この二つの建物は昭和十一年、世界を一周して帰国すると、ただちにその理想を実現せんとして買収したものである。東京会館は現に、進駐軍の使用によって見ちがえるように花やかに、立派に、綺麗になっている。私の孫の大学生は、英語の勉強のために勤労者の一人として働いている。彼は命ぜらるる時間通り働きづめに働いている。ぼんやりと手を空しうして、油を売る時間の無いように、順序よく働かせらるるのに満足しつつ、その得るところ大なるを喜んでいる。
この東京会館の賑やかな、花やかな夜色に対して、帝劇のうす暗い周囲の光景を見るために、帝劇の屋上近い部屋の一隅に佇立したのである。そして帝劇附属館である四階建洋館の真暗な、沈黙せる建築を凝視すると、東宝の若い連中が、ここにも宝の持腐れを抱いて平然としているその呑気さに驚くのみである。
然し、帝劇そのものは、幸いにもバレエ「白鳥の湖」の開演中とあって、今しもチャイコフスキーの前奏曲が静かに、ゆるやかに、響き渡るのである。このクラシックのロシヤンバレエが、満員日延の興行であり、若い男女の事務員達が、嬉々として二十五円の入場料を払い大衆支持の盛況を呈していることは、帝劇買収当時の理想から見て、何という皮肉な現象であろう。敗戦の日本に主権は人民にありという新憲法が議会を通過し、民主主義は確定されて、「帝国劇場」という名称すらもピンと来ない時、私は過去を語らんとするのである。それは『なぜ帝国劇場を買収したか』について、今やその将来を杞憂するからである。
帝劇に夢みた私の計画
十年は一昔、丁度十年前に、私は、巴里の国立劇場グランドオペラに開催された海軍兵学校の慈善演劇会に、佐藤大使のお招きを受けて、大統領御臨席の夜会に出席したのである。日記によって、当夜の光景を回顧するであろう。
「正面の階段を入ると、両側に水兵がならんでいる。盛装の貴婦人と、紳士と海軍武官や外交官の御家族達で、婦人は裾をひいて半裸体、頭に冠のようなダイヤモンドの燦然たるリングを被っている。ルイ十四世時代の、芝居の舞台で見るような貴婦人も見受けた。昨夜この劇場にトラビヤタを見物した同一劇場とは思えないように変っている。オーケストラボックスは取払われ、舞台から客席まで、平面の大広間になっている。かれこれ二千人近くの来賓が芋を洗うように立っている。しかも静粛に何時間か立ちづめである。社交的訓練が行届いたものだと感心した。
大統領のお席は、私達桟敷の二、三室ばかり隣の舞台に近い一室である。丁度十一時すこしすぎた頃、桟敷の裏の通路の両側に、兵学校の生徒が制服でお迎えしてならんでいる。ところどころ赤い飾りのある軍装の
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