ちに映画の製作に一致すべき共通点があることを強調した。長谷川一夫、山田五十鈴のトリオが、如何に地方人を魅了し、優秀なる東宝色彩を維持しうるとしても、現在の映画企画は更に一歩を進めて、その観客層の請求に善処しなければ駄目であることを信じているからである。私のごとき無学な老人においてすらも、洋映画のタイトルも読めず、スクリーンの訳文にたよる低能な観客においてすらも、東宝、松竹、大映の千篇一律な古臭いものよりも、洋映画のもつ芸術味と、興味の深い筋の運び方、こんこんとして湧いてくる音楽の盛り上る力、俳優の真剣なる態度等々、何もかも、比較にならない程優越している米国映画の方が嬉しいのである。
殊に遠からず天然色が輸入せらるる場合には、圧倒的に洋画の勢力に押えつけられることは、火を見るよりも明らかである。東宝の立場としては、現在のスター陣によって安閑たりうる時代ではないと思う。芝居にしても、映画にしても、彼等の御機嫌をとるよりも、彼等とともにお互いに自らを顧みて、奮励一番、改革をなすべき時である。たとえ一小部分なりとも、日本再建の使命をになう、映画界の指導者としての東宝は赤化組合に引ずられてまご
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