元日の釣
石井研堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)例《ためし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)亦|中《あた》りぬ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)飛※[#「風にょう+昜」、第3水準1−94−7]《ひよう》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)うと/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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  上

 元日[#「元日」に傍点]に雨降りし例《ためし》なしといふ諺は、今年も亦|中《あた》りぬ。朝の内、淡雲|天《そら》を蔽ひたりしが、九時ごろよりは、如何にも春らしき快晴、日は小斎の障子一杯に射して、眩しき程明るく、暖かさは丁度四五月ごろの陽気なり。
 数人一緒に落合ひたりし年始客の、一人残らず帰り尽せるにぞ、今まで高笑ひや何かにて陽気なりし跡は、急に静かになりぬ。
 机の前の座に着けば、常には、書損じの反故《ほご》、用の済みし雑書など、山の如く積み重なりて、其の一方は崩れかゝり、満面塵に埋もれ在る小机も、今日だけは、特《こと》に小さつぱりなれば、我ながら嬉し。
 頬杖をつき、読みさしの新聞に対《むか》ひしが、対手酒のほろ酔と、日当りの暖か過ぐると、新聞の記事の閑文字《かんもんじ》ばかりなるにて、終《つい》うと/\睡気を催しぬ。これではと、障子を半ば明けて、外の方をさし覘《のぞ》けば、大空は澄める瑠璃色の外、一片の雲も見えず、小児の紙鳶《たこ》は可なり飛※[#「風にょう+昜」、第3水準1−94−7]《ひよう》して見ゆれども、庭の松竹椿などの梢は、眠れるかの如くに、些《すこ》しも揺がず。
 扨《さて》も/\穏かなる好き天気かな。一年の内に、雨風さては水の加減にて、釣に適当の日[#「釣に適当の日」に傍点]とては、真《まこと》に指折り数ふる位きり無し。数日照り続きし今日こそは、申し分の無き日和《ひより》なれ。例の場所にて釣りたらば、水は浪立ずして、熨《の》したる如く、船も竿も静にて、毛ほどの中《あた》りも能く見え、殊に愛日を背負ひて釣る心地は、嘸《さぞ》好かるべし。この陽気[#「この陽気」に傍点]にては、入れ引[#「入れ引」に傍点]に釣れて、煙草吸ふ間も無く、一束二束の獲物有るは受合ひなり。あゝ元日でさへ無くば往きたし。この一日千金の好日和を、新年……旧年……相変らず……などの、鸚鵡《おうむ》返しに暮すは勿体無し。今日往きし人も必ず多からん。今頃は嘸《さぞ》面白く釣り挙げ居つらん。軒に出せし国旗の竿の、釣竿の面影あるも思の種なり。紙鳶挙ぐる子供の、風の神弱し、大風吹けよと、謡ふも心憎しなど、窓に倚りて想ひを碧潭《へきたん》の孤舟《こしゅう》に騁《は》せ、眼に銀鱗の飛躍を夢み、寸時恍惚たり。
 やゝありて始めて我に返り、思ふまじ思ふまじ、近処の手前も有り、三ヶ日丈け辛抱する例は、自ら創《はじ》めしものなるを、今更破るも悪しゝ。其代り、四日の初釣には、暗きより出でゝ思ふまゝ遊ばん。併《しか》し、此天気、四日まで続くべきや。若し今夜にも雨雪[#「雨雪」に傍点]など降りて水冷えきらば、当分暫くは望みなし。殊に、明日の潮は朝底りの筈なれば、こゝ二三日は、実に好き潮なり。好機は得離く失ひ易し、天気の変らざる内、明日にも出でゝ念《おもい》を霽《は》らし、年頭の回礼は、三日四日に繰送らんか。綱引の腕車《くるま》を勢よく奔《はし》らせ、宿処ブツクを繰り返しながら、年始の回礼に勉むる人は、詮《せん》ずる所、鼻の下を養はん為めなるべし。彼れ悪事ならずば、心を養ふ此れ亦、元日なりとて、二日なりとて、誰に遠慮気兼すべき。さなり/\、往かう/\と、同しきことを黙想す。
 されども、想ひ返しては又心弱く、誰と誰とは必ず二日に来るかた仁《じん》にて、衣服に綺羅を飾らざれども、心の誠は赤し。殊に、故《ことさ》ら改らずして、平日の積る話を語り合ふも亦一興なり。然るを、予《われ》の留守にて、空《むな》しく還すはつれ無し。世上、年に一度の釣をも為《せ》ぬ人多し。一日二日の辛抱何か有らん。是非四日まで辛抱せんかと、兎《と》さま角《こう》さま思ひ煩ひし上句《あげく》、終に四日の方に勝たれ、力無く障子を立て、又元の座に直りぬ。
 一便毎に配達受けし、「恭賀新年」の葉書は、机上に溜りて数十百枚になりぬ。賀客の絶間に、返事書きて出さんかと、一枚づゝ繰り返し見つ。中には、暮の二十九日に届きしを先鋒として、三十日三十一日に届きしも有り。或は、旧年より、熱海の何々館に旅行中と、石版に摺りたるにて、麹町局の消印鮮かに見ゆるあり。或は新年の御題《ぎょだい》を、所謂《いわゆる》ヌーボー流に描き、五
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