夢殿殺人事件
小栗虫太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)歴然《れっき》とした
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)創底が三|糎《センチ》程の
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+需」、第4水準2−15−67]
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一、密室の孔雀明王
――(前文略)違法とは存じましたけれども、貴方様がお越しになるまで、所轄署への報告を差控える事に致しました。と申しますのは、まことにそれが、現世では見ようにも見られない陀羅尼の奇蹟だからで御座います。
ある金剛菩薩の歴然《れっき》とした法身の痕跡を残して、高名な修法僧は無残にも裂き殺され、その側に尼僧の一人が、これもまた不思議な方法で絞り殺されているので御座います。そればかりではなく、現場には、この世にない香気が漂い、梵天の伎楽が聴こえ、黄金の散華が一面に散り敷かれているのです。ああ法水《のりみず》様、申す迄もなく終局には、この真理中の真理が大焔光明と化して、十方世界に無遍の震動を起すに相違御座いませんけれども……、まずそれに先き立って、貴方様の卓越した推理法に依り、奇蹟を否定しようとする凡ゆる妄説を排除して頂きたく、御願いする次第で御座います――。
恐らく読者諸君は、盤得沙婆のこの一書を指して、如何にも狂信者らしい、荒唐無稽を極めた妄覚と嗤うに相違ない。が、事実それには、微塵の虚飾もなかったのだ。その三十分後には、法水麟太郎と支倉《はぜくら》検事の二人が、北多摩軍配河原の寂光庵に到着していて、まさにそこで、疑う方なく菩薩の犯跡を留めている二つの屍体に直面したのだった。それが恰度、爐中さながらにうだり切った八月十三日午後三時の陽盛り――事件発見から数えて、その二時間に当っていた。
扨《さて》ここで、寂光庵に就き掻い摘んだ説明をして置こうと思う。この尼僧寺は、婦人の身で文学博士の肩書を持ち、自ら盤得沙婆と号する工藤みな子の建設に係わるものであって、あまねく高識な尼僧のみを集め、瑜伽大日経秘密一乗の法廓として、ひろく他宗に教論談義を挑みかけていた。所が最近になって、この異様な神秘教団に不可解な人物が現われた、と云うのは、推摩居士と称する奇蹟行者の出現だった。それが奇怪至極にも、尼寺の鉄則を公然と踏み躪っているばかりではなく、推摩居士は竜樹の再身と称して、諸菩薩の口憑《くちよせ》や不可思議な法術をも行い、次第に奇蹟行者の名を高めるに至った。しかも、それ等一切の行を御廉一重の奥で行って、決して本体を見せなかったのであったが、それが却って、神秘感を深める効果ともなって、渇仰の信徒が日に増し殖えて行った。その矢先折も折から、到底この世にあろうとは思われぬ不可思議な殺人事件が、寺内の夢殿に起った。そして、端なくもそれが起因となって、推摩居士の本体が曝露されるに至ったのである。
寂光庵は、新薬師寺を髣髴とする天平建築だった。その物寂びた境域には、一面に菱が浮かんでいる真蒼な池の畔を過ぎて、※[#「木+需」、第4水準2−15−67]子《れんじ》の桟が明らかになって来ると、軒端の線が、大海を思わせるような大きな蜒りを作って押し冠さって来るのだ。その金堂が、五峯八柱櫓のように重なり合った七堂伽藍の中央になっていて、方丈の玄関には、神獣鏡の形をした大銅鑼が吊されていた。そして、その音が開幕の合図となって、愈《いよいよ》法水は、真夏の白昼鬼頭化影の手で織りなされた、異様な血曼荼羅を繰り拡げて行く事になった。
法水は庵主盤得尼の切髪を見て、この教団が有髪の尼僧団なのを知った。盤得尼は五十を越えていても脂ぎって艶々しく、凡てが圧力的だった。見詰めていると、顔全体が異様に昂って来る感じがするけれども、そこにまた、冷酷な性格を充分満せないような、何んとなく秘密っぽい画策的な、まるで魔女のような暗い影が揺めいているようにも思われるのだった。間もなく、法水は案内されて、本堂の横手口にある室に入った。そこは、左右に廊下を置いていて、書院一つ隔てた外縁の※[#「木+需」、第4水準2−15−67]子窓からは、幽暗な薄明りが漂って来る。入ると、盤得尼は正面の扉を指差して、
「此処で御座います」と男のような声で云った。「夢殿と申しまして、以前は寺院楽と黙行の修行所に当てて居りましたのですが、最近では此処で、推摩居士が祈祷と霊通を致すようになりまして……」
そこには、黒漆塗の六枚厨子扉があって、青銅で双《ならび》獅子を刻んだ閂の上には、大きな錠前がぶら下っていた。盤得尼が錠前を外し扉を開くと、正面には半開きになっている太格子の網扉があって、その黒い桟の内側には、西の内を張った※[#「木+需」、第4水準2−15−67]子障子が、格の間に嵌められてあった。然し、その重い網扉がけたたましい車金具の音と共に開かれ、鉄気《かなけ》が鼻頭から遠ざかると同時に、密閉された熱気でムッと噎せ返るような臭気を、真近に感じた。前方は二十畳敷程の空室で、階下の板敷と二階の床に当る天井の中央には、関東風土蔵造り特有とも云う、細かい格子の嵌戸が切ってあった。そして、双方の格子戸から入って来る何処かの陽の余映を、周囲の壁が、鈍い銅色で重々しく照り返していて、またその弱々しい光線が、正面の壁に打衝《うちあた》ると、そこ一面にはだかっている十一面千手観音の画像に、異様な生動が湧き起されて来るのだった。所が、その画像を見詰めながら、法水が一足閾を跨いだとき、右手にある階段の上り口に、それは異様なものが突っ立っているのに気が付いた。その薄ら茫やりとした暗がりの中には、地図のような血痕の附いた行衣を着て、一人の僧形をした男が直立している。そして、その男は、両手をキチンと腰につけたまま膝をついていて、正面に烱々たる眼光を放っているのだ。然し、眼が暗さに慣れるにつれて、更に驚くべきものを見た、と云うのは、その男の両足は、膝蓋骨から三寸ほど下の所で切断されていて、その木脚のような二本の擂木《すりこぎ》が、壁に背を凭せ全身を支えて突っ立っているのだった。「これが推摩居士なので御座います」と、この凄惨な場面《シーン》に適わしからぬような、恍とりとした声で、盤得尼が云った。ああ、なんと皮肉な事であろうか、殺された当の人物と云うのが、奇蹟行者だったのだ。「所が、正午頃夢殿に入られてから発見される一時十五分迄の間と云うものは、一向に何んの物音もなく、それに、嗄れ声一つ聴こえませんのでしたが……」
推摩居士の年齢は略々《ほぼ》盤得尼と頃合だけれども、その相貌からうける印象と云えば、まず悉くが、打算と利慾の中で呼吸している、常人以外のものではなかった。鋭く稜形に切りそがれた顴骨《かんこつ》、鼠色の顎鬚――と数えてみても、一つは性格の圭角そのもののようでもあり、またもう一つからは、浅薄な異教味や、喝するような威々しさを感ずるに過ぎなかった。総体として、※[#「口+奄」、第3水準1−15−6]《おん》の聖音に陶酔し、方円半月の火食供養三昧に耽る神秘行者らしい俤は、その何処にも見出されないのであった。所が、その相貌とは反対に、推摩居士の表情姿体を観察して行くと、それには、恐怖驚愕などと云うような、殺人被害者固有の表出を全く欠いていた。そればかりか、何んとなく非現世的な夢幻的なものに包まれていて、その清洌な陶酔に輝いている両眼、唇の緩やかな歪みなどを見ると、そこから漲り溢れて来る異様なムードは、この血腥い情景を瞬間忘却させてしまい、それはてっきり、歓喜とか憧憬とか云ったら似付かわしいのであろうか、全く敬虔な原始的《プリミティヴ》な、子供っぽい宗教的情緒に外ならぬのであった。恐らく、到底この世にあり得ようとは思われぬ、或る異常な情景が、推摩居士の眼前に現われ出たのであろう。そして、彼の視覚世界が最終の断末魔に至るまで、その何ものかの上に、執着していたのを物語るのではないだろうか。然し肱だけの行衣に平ぐけの帯を締めた血みどろの身体は、コチコチに硬直していて、体温は既に去っていた。法水は屍体の大腿部を見詰めていた眼を返して、血に染んだ右掌を拭き、そこに何やら探している様子だったが、やがて、行衣に現われている四つの大血痕の下を調べ始めた。すると、そこから、心臓をギュッと掴まれたような駭きとともに、犯人の異形な呪文が現われ出たのだった。
そこで、四つの創形を云うと、そのうちの二つは左右上膊部の外側、即ち肩口から二寸ほど下方にあって、残り二つは、左右腰骨の突起部、即ち大臀筋の三角部だった。何れも、人体横側の最高凸出部であり、その位置も左右ともに等しく、尚、その上下の一対が、垂直線の両端に位しているのが注目されるが、何よりの駭きと云うのは、明瞭な字紋様の創形と、それに到底人間業とは思われない――恰度精巧な轆轤で、刳り上げたような一致が現われている事であって、またその二つが、左右とも微細な点に至るまで符合しているのだった。それをなお詳細に云うと、上膊部のものは、最初上向きになった鋭い鉤様のものを打ち込んだらしく、創底が三|糎《センチ》程の深さになっていて、それを上方に向けて刳りながら次第に浅くなって行き、全体が六|糎《センチ》程の長さで、※[#底本が「訶」と注記した梵字(fig45230_01.png)、187−下−22]の形になって終っている。次に腰辺のものは、※[#底本が「口+羅」と注記した梵字(fig45230_02.png)、187−下−23]の形をなしていて、全長は前者よりも稍長く、深さは略等しいと云って差支えなかったが、疑問は、それのみには止まらなかったのである。いずれも、傷の末端が、V字型をせずに、不規則な星稜形をなしていて、何か棒状のもので掻き上げたような、跡を留めているのだった。即ち、以上四つの創傷に就いて、その生因を瞼の裏に並べてみると、てっきり首尾を異にしているとしか思われぬような――まるで猫の爪みたいに、自由自在な隠現をするかのような兇器を、想像するより外にないのだった。法水は盤得尼を振り向いて、彼には稀らしいくらい、神経的な訊き方をした。
「何んとなく僕には、これが梵字のように思われてならないのですが」
「明らかにそうで御座います。これは、※[#底本が「訶」と注記した梵字(fig45230_01.png)、188−上−12](訶)と※[#底本が「口+羅」と注記した梵字(fig45230_02.png)、188−上−12](※[#「口+羅」、第3水準1−15−31])の二つで御座いまして、双方ともに、神通誅戮と云う意味が含まれて居ります」
と盤得尼は、妙に皮肉にともとれる微笑を湛えて云い返した。
「成程」法水は幾分蒼ざめた顔をして頷いたが、再び屍体に視線を向け始めた。屍体の周囲には、四個所の傷口から滴り落ちた僅かなものだけが、ところどころ点滴を作っているだけであって、全身には大出血特有の不気味な羸痩《るいそう》が現われ、弛んだ皮膚は波打って、それが薄気味悪く、燐光色に透き通って見えるのだった。左は中指右は無名指が第二関節からない両手の甲は、骨の間がすっかり陥没して居て、指頭が細く尖って異様に光っているばかりではなく、膝蓋骨から下の擂木は、殆んど円錐状をなす迄に萎え細っていた。それから推して考えてみるに、夢殿の何処かには、恐らく大量の血液が残っていて、推摩居士は其処から運ばれたに違いなかった。けれども、一方四つの創傷が、それぞれに大血管や内臓を避けているのを考えると、血友病が到底あろう道理のない身体に、どうして斯かる大出血が起されたものか――その点が頗る疑問に思われるのだった。と云って、その四つ以外には針先程の傷もなくて、法水は簡単に全身を調べ終ってしまった。それを見て盤得尼が云った。
「これで、すっかりお解りになりましたでしょう。尼寺の鉄則を何故推摩居士だけに許していたか……。御覧の通りこの方は
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