していて、全長は前者よりも稍長く、深さは略等しいと云って差支えなかったが、疑問は、それのみには止まらなかったのである。いずれも、傷の末端が、V字型をせずに、不規則な星稜形をなしていて、何か棒状のもので掻き上げたような、跡を留めているのだった。即ち、以上四つの創傷に就いて、その生因を瞼の裏に並べてみると、てっきり首尾を異にしているとしか思われぬような――まるで猫の爪みたいに、自由自在な隠現をするかのような兇器を、想像するより外にないのだった。法水は盤得尼を振り向いて、彼には稀らしいくらい、神経的な訊き方をした。
「何んとなく僕には、これが梵字のように思われてならないのですが」
「明らかにそうで御座います。これは、※[#底本が「訶」と注記した梵字(fig45230_01.png)、188−上−12](訶)と※[#底本が「口+羅」と注記した梵字(fig45230_02.png)、188−上−12](※[#「口+羅」、第3水準1−15−31])の二つで御座いまして、双方ともに、神通誅戮と云う意味が含まれて居ります」
と盤得尼は、妙に皮肉にともとれる微笑を湛えて云い返した。
「成程」法水は幾分蒼ざめた顔をして頷いたが、再び屍体に視線を向け始めた。屍体の周囲には、四個所の傷口から滴り落ちた僅かなものだけが、ところどころ点滴を作っているだけであって、全身には大出血特有の不気味な羸痩《るいそう》が現われ、弛んだ皮膚は波打って、それが薄気味悪く、燐光色に透き通って見えるのだった。左は中指右は無名指が第二関節からない両手の甲は、骨の間がすっかり陥没して居て、指頭が細く尖って異様に光っているばかりではなく、膝蓋骨から下の擂木は、殆んど円錐状をなす迄に萎え細っていた。それから推して考えてみるに、夢殿の何処かには、恐らく大量の血液が残っていて、推摩居士は其処から運ばれたに違いなかった。けれども、一方四つの創傷が、それぞれに大血管や内臓を避けているのを考えると、血友病が到底あろう道理のない身体に、どうして斯かる大出血が起されたものか――その点が頗る疑問に思われるのだった。と云って、その四つ以外には針先程の傷もなくて、法水は簡単に全身を調べ終ってしまった。それを見て盤得尼が云った。
「これで、すっかりお解りになりましたでしょう。尼寺の鉄則を何故推摩居士だけに許していたか……。御覧の通りこの方は男でもなければ女でも御座いません。つまり、そうなりましたと云うのは、日独戦争の折炸裂弾をうけて、両足と或る器官を失ってしまったからなので御座います。然し不思議な事には、それ以後此の方に、竜樹菩薩の化影が現われるようになりました」
「それは庵主、この太腿で、一目瞭然たるものなんですよ」法水が白々し気に云い返した。「内側へ捻れているでしょう。これで下肢が完全ですと、恰度馬の足のような形が見られるのです。それを内飜馬足とか云いましてね、たしか外傷性のヒステリヤには、一番多く見る現象なんですよ。そうすると、変則な強直をしている点に、第一説明が付きますし、何より犯人が、その無意識状態を利用した許りか、日頃不思議な法術の種になっている|悪魔の爪《デイヴルス・クロウ》([#ここから割り注]中世紀の所謂魔女に現われた宗教性ヒステリー現象[#ここで割り注終わり])を、却って逆用した事がお判りになりましょう。然しこの梵字の創跡《きずあと》だけは、人間の手では到底不可能な芸でしょうな」
「|悪魔の爪《デイヴルス・クロウ》※[#感嘆符疑問符、1−8−78] そうなりますかね」盤得尼は怒りに顫えながらも嘲弄の響きを罩めて、「そうすると、あれは一体どうなるのでしょうか、お気付きになりませんか? 階段の頂上から此処までの間に、血の滴り一つないのですよ。ねえ法水さん、血みどろの推摩居士は、大体どう云う方法に依って此処まで運ばれて来たのでしょうね? それに、どう考えたって、自分の着衣に血を移すような愚かな自殺的行為を、第一犯人のする気遣いがないでは御座いませんか」
事実盤得尼の云う通りだった。それまで二人ともそれに気付かなかったのは、光線の加減で五、六段から上が血溜りのように見えたからだった。それから、法水は階下の調査を始めたけれども、床の嵌戸に附いている錆付いた錠前を壊して、床下から数片の金泥を拾い上げたのみの事だった。そうして調査が、赭岩ばかりで出来た海底のように、仄暗い階下から離れて、階段の上に移された。
然し、階段の中途まで来ると、さしもの彼も思わず棒立ちになってしまった。パッと眼を打って来た金色《こんじき》の陽炎《かげろう》に眩まされて、殺人現場と云う意識がフッ飛んでしまったばかりでなく、先刻盤得尼の手紙を読んで妄覚と笑ったものが、今や彼の眼前で、寒天のように凝り固まって行こうとしてい
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