しい疑題が起って来て、一体その間、浄善は何をしていたと云う事になってしまうぜ」
[#殺人現場の図(fig45230_03.png)入る]
「では、毒物が……」検事が自説を述べようとするのを、法水は抑えて、
「所が支倉君、ここに途方もない逆説《パラドックス》があるのだよ。と云うのは、全くあり得ないような事だけれども、この女にはたしか、絶命するまで意識があったに違いないのだ。だから、もし解剖して、腺に急激な収縮を起すような毒物が証明されない日には、恐らく浄善は、その間人間最大の恐怖を味わっていた事になるだろうね。ねえ、薄気味悪い話じゃないか。痲痺した体で眼だけを※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]って、その眼で、自分の首に手が掛かるまでの、惨らしい光景を凝然《じっ》と眺めていたんだからね」と更に屍体の眼球を擦《こす》ってみて、結論を述べた。
「見給え、水分が少しもない。そして、恰度木を擦《さす》っているようじゃないか。大体屍体の粘膜と云えば、死後に乾燥するのが通例だろう。だが、二時間やそこいらで斯んなに酷いのは、恐らく異例に属する事だぜ。それに、眼球の上に落ちた血滴が少しも散開していない。そうすると、涙腺が極度に収縮しているのが判るだろう。つまりその凡てが、異常な恐怖心理の産物であって、血管や腺の末管が、急激に緊縮してしまうからなんだ。然し、またそうかと云って、その間浄善が失神していたのでないと云う事は、痙攣の跡がない――と云う一事だけでも、瞭然たるものなんだよ」
 然し、立ち上ると法水は、ブルッと胴慄いして、明らかにその顔色には、容易ならぬ例題に直面しているのを、語るものがあった。
「だが支倉君、そんな事よりも、あれだけの血が一体何処へ行ってしまったのだろう?」
「ウン、確かに体外血量の測定をする必要はあると思うね。吸うのもいいだろうが、吸血鬼でも人間じゃ、立ち所に恐ろしい生理が起ってしまうぜ」と検事が尤もらしく呟くのを、法水は嘲けり返すように見て、
「所が、此の事件には、ポルナで働いたチームケ教授は要らないのだよ。此処に散らばっている金泥全部を集めた所で、恐らく二百|瓦《グラム》とはあるまいからね」
 と暫く莨《たばこ》を口から放したまま考えていたが、やがて法水は玉幡の一つを取り上げた。玉幡は四本とも同型のもので、幅二尺高さ七尺ばかり、上から三分の一までの部分は、ビルマ風の如意輪観音が半跏を組んでいる繍仏になっていて、顔を指している右手の人差指だけが突出し、それには折れないように、薄い銅板を菱形にして巻いてあった。そしてその下に、中央には、日の丸形の円孔が空いている、細かい網代織《あじろお》りの方旛が、五つ連なっていた。重量は非常に軽く一本が六、七百匁程度で、それが普通の曼陀羅より余程太い所を見ると、たしかに蓮の繊維ではなく、何か他の植物の干茎らしいと思われた。尚、盤得尼の云う所に依ると、始めから終りまで、結び目なしの継ぎ合せた一本ものだと云う事だったのである。然し、試みにその一つを、三階の突出床から、礼盤の前方にかけて張ってある紐に結び付けてみても、床から五寸余りも隙いてしまう。更に法水は、玉幡の裾の太い襞の部分を取り上げて、それを浄善の扼痕に当てがってみたが、形状が非常に酷似しているにも拘らず、太さも全長も、到底比較にならぬ程小さいのだった。法水は、他からもそれと判る失望の色を泛べて、それから悠ったりと室内を歩き始めたが、やがて火焔太鼓の背後の壁に、一つの孔を見付けて盤得尼に問うた。
「伝声管で御座います。礼盤の右手は浄善、左手《ゆんで》の火焔太鼓に寄った方が推摩居士の座になって居りまして、つまり、推摩居士に現われる竜樹の御言葉を、書院の中にある管の端から聴くので御座います。今日は、それが普光尼の番で御座いました」とそれに次いで、盤得尼は左の通り事件発生当時の情況を語り始めた。
 ――推摩居士に兆候が現われたので、盤得尼と浄善が夢殿の中へ連れ込み、盤得尼は油時計に、零時の目盛まで油を充たして点火し、夢殿を出たのが零時五分。そうすると、扉を出ると同時に笙が鳴り始めたけれども、火焔太鼓の音は聴こえず、その笙も二、三分鳴り続けたのみで、その後は一時十五分に、智凡尼が変事を発見するまで、物音一つしなかったと云うのである。尚、尼僧達の動静に就いて云えば、盤得尼が自室に、普光は書院に、寂連は遙か離れた経蔵に、智凡は本堂の飾り変えをしていたと云うのみの事であって……、更に、事件を境にして夢殿内に起っていた変化と云えば、小窓が開かれていた事と、油時計が一時三十分を指して消えている――と云う二つに過ぎないのだった。
 以上の聴取を終ると、法水は再び動き始めた。
「それでは支倉君、床に付いている推摩居士の皮膚の跡を探すとするかな」
 所
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