転が止まなかったと、思わなければならないだろう。それから犯人は、笙の鳴り出す時刻に近附いたので、頃やよしと階下に下りて行った。所が、智凡尼は入るとすぐ、千手観音の画像が不気味な躍動をしているのを、発見したのだったけれども、これは屡出逢う事で、とうに脳裡の盲点になっていたのだから、当然気にしなかったと同時に、その時階下が、誰もいない空室だったと誤信してしまった。で、その一瞬後に、階上に動いている影を発見したのだったけれども、嵌格子を斜下から眺めて、そこに影らしい珍しいものが、チラッと映じたのみの事で、それをすぐに確かめようとはしなかった。と云うのは、横手にある異形な推摩居士を発見したからなんだよ。それから推して考えると、推摩居士を階段の上り口に下ろしたと云うのは、その殆んど全部の目的が、フィルターの正体を曝露させないために、すぐ目撃者の注意を、惹くためだったに相違ない。斯うして、精密な仕掛を種に錯視を起させて、やがて智凡尼が二階へ上った隙に、明け放した網扉から脱け出したのだが……。さて、残った謎と云うのは、笙がどうして鳴らされたか――と云う一事なんだよ。階下に潜んでいる犯人が、階上の笙を吹けると云う道理はないし、それとも、事実二階に人間がいたとすれば、密室の中へ、更にもう一つの密室が築かれてしまうのだよ」
「ウン、浄善の姿勢が変ったと云う事だけは、不自然に作られた強直が絶命後に緩和するからね。それは、それで解るにしても……」と検事が合槌を打った時に、青白い光が焼刃のように閃いて雷鳴が始まった。雷の嫌いな法水は、鳥渡顔色を変えたが、そのためか一層蒼白になって、凄じい気力を普光尼に向けた。
「そこで、私は最後の断案を下したいのですが、それを云う前に、先日秘かに試みた心理試験の結果をお話する事にしましょう。と云うのは、推摩居士の行衣にある瓢箪形の血痕を、各人各様に見た印象が素因《もと》なのです。所が、貴女だけは、それを知らない――と答えましたっけね。私は、あれ程特異な形を知らないと云う言葉に、異様な響きを感じて、早速その分析を始めました。そして気がついたのは、私と貴女とでは、目的とするものが全然異なっていると云う事なんです。言葉を換て云えば、貴女は私の術中にまんまと陥ってしまったのですよ。実を云うと、あの心理試験を用いた真実の目的と云うのは、決して瓢箪形の血痕にあるのではな
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