《ぞっ》とするような鬼気を覚えるであろう。二人が寂光庵に着いた頃は、恰度雷雨の前提をなす、粘るような無風帯の世界であった。が、入るとすぐに普光尼を呼んだ。然し、法水だけは、案内の尼僧が去ると同時に室から出て、普光尼が来てから大分経って戻って来た。
「僕は貴女だけに聴いて頂いて、当時貴女が、伝声管から聴き洩らした音を憶い出して頂きたいのです。所で、その前に、犯人が一体どう云う方法で、密室から脱出したものか――それをまず、お話する事にしましょう」
 ああ、法水は何時の間にか、密室の謎を解いていたのだ。彼が語り始めた犯人の魔術とは、一体何んであったろうか?
「僕がこの説を組立てる事が出来たのは、多数の手や首を持っている、所謂多面多臂仏の感覚からなのです。所で、御承知の通り夢殿には、階下の正面に、殆んど等身大と思われる十一面千手観音の画像が掲っています。そして、僕がその感覚に気付いたと云うのは、恰度事件当日四時半頃の事なのでした。その時表面の厨子扉には、横手の※[#「木+需」、第4水準2−15−67]子窓が黒漆の上に映って居りました。所が、それから網扉を開くと、正面の千手観音に不思議な運動が起るのを見たのです。と云うのは、最初厨子扉に映った※[#「木+需」、第4水準2−15−67]子を見詰めて、それから網扉に嵌まっている縦桟の格障子を見たからなんです。つまり※[#「木+需」、第4水準2−15−67]子窓の残像が縦桟の間に挾まって――そうした時に網扉を開いたのですから、当然一つの実像と一つの残像とが交錯して、そこに所謂驚盤現像(縦穴の並んでいる円筒を廻転させると、内部の物体が動くように見える活動写真的現像)が起らねばなりません。然しその現象は、網扉が眼前から去ると同時に、当然止むだろうと思うでしょうが、事実は、その後も暫く続いて居りました。多分、視軸に影響して廻転が続くので、それにつれて、やはり以前通りに動いたのでしょう。すると、眼前の十一面千手観音にどう云う現象が起ったと思いますね。臂を上方に立てている肩口の七本と、下に向けている腰辺の四本が……、各々が一本の手になってしまって、その手を左右に振っているかのような錯視が現われたのです。つまり、残像の列と符合している縦の線が、目撃者に動いたように見えたからなんですが、同時にそれにつれて、全身の線や襞が、不気味な躍動を始めて来ま
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