ページ目に、
「それに、たとえば頭だけ出たところで……」
と、可哀そうなアリスはこう考えはじめました。
「肩も、一緒に出なけりゃ、なんの役にも立たない。ああ望遠鏡みたいに、からだを畳めたらなア。あたし手始めの、やり方さえわかれば、きっと出来ると思うわ」
これは、ねえ末起……。あなたが、どんなに※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いて扉などをさぐっても、このように畳み込めないかぎりは、蟻でもとおれないでしょう。だいいち、アリスにもこう次の行にあります。それはアリスが滅多に出来ないことはないと、かたく信じていたからです――と。どう末起、すこしでも、あなたに無駄骨を折らせまいと、真底からの忠告をします。お止めなさい、そして、次に十二ページ目をあけること。
[#ここから1字下げ]
アリスの右足さま
爐辺敷物通り
灰止めの近く
[#ここで字下げ終わり]
これが、おそらく最終の解答でしょう。あたくしは、暖爐のなかに動かせるところが、一個所かならずあるような気がします。それ以外に、隙間洩る風のような侵入は、どこを見たって考えられないじゃない※[#感嘆符疑問符、1−8−78] 探ってみて……、きっと真理は、ごく平凡なところにあると思いますわ。
けれど末起は、お姉さまをきっと疑わないでしょう。あなたは今、お姉さまの膝のうえにのっている。やさしい、眼は閉じられ開かれるのは、迷いし、その胸と唇。
折り返し、お姉さまは吉報を待っていますよ。
[#地から4字上げ]愛もて
[#地から2字上げ]方子より
(末起からの返事)
お姉さま、ずいぶんひどいわ。あんな暢気そうなこと、本気にしてしまって、私、暖爐のなかを一日中掻きまわしたわ。だけど、動くどころか、なんの応えもありません。でも私、なぜお姉さまがああなさったのか――やっと分りましたわ。
張り詰めて、ガンガン鳴るようにとがり切った神経が、あの夜だけ、お姉さまのお蔭で、ぐっすり休めましたもの。
あら、そんなこと※[#感嘆符疑問符、1−8−78] どうして、お姉さまをお恨みするなんて、そんなことが……。私の健康を気遣ってああして下さったのに……これほど美しい愛と信実がありまして※[#感嘆符疑問符、1−8−78] ただ私には、うかべたお姉さまの面影を楽しむときがありませんの。でも近いうちに新邸へ越します。そうしたら、暗い気分も払われるでしょうし、いつも野山を越えて、お側にいられるでしょう。それまで、可哀そうな末起をお叱りにならないで……。
お姉さま、慕わしい、うつくしいお姉さま。末起は、お姉さまの永遠に、お腰元ですわ。
[#地から2字上げ]末起より
(方子よりその返し)
末起ちゃん、御免なさいね。あたくしの、可愛くって可愛くって嚥みこんでしまいたいあなたに、あんなことをさせて……。でも、心をわかって戴いて、なによりと思うわ。聡明な、末起ちゃんには予期していたことですけれど、あなたには、あの悩みに洗滌《せんでき》が要りますの。そうでもしないと、末起ちゃんのからだが、保《も》たなくなります。
ところで、あなたは引っ越しをするんですってね。それで、なぜ末起ちゃんの髪が要るのか、その理由が分りましたの。お祖母さまは、いますんで[#「すんで」に傍点]のところで、怖ろしい目に逢うのです。
髪毛《かみのけ》が、湿度によって伸縮するのを、御存じ……。あれを、落し金の動きに応用して、秘密の装置を鍵孔の中につくった人があるの。そうでしょう。髪毛の先に重錘《おもり》をつないで置いて、それから湯を鍵孔に注ぎこむ。すると、湿度が高くなって髪毛が伸び、重錘がさがり落し金が下りるのです。ですから、合鍵はむろんあったでしょうし、ただ、落し金にその装置をつなぎ、湯を注ぎこむだけで楽々と扉があく。
ねえ末起、誰でしょう?
おなじ部屋で二度の殺人はと思い、新邸にその装置をつくり、またの機会を狙っているのです。
だから、末起とお祖母さまははやく逃げないと……。すぐ、この手紙を読んだら車にのせて、お祖母さまと此処へ飛んでいらっしゃい。あたくしは、愛と信実にかけて、無事をいのります。末起ちゃんを、胸に暖めて、やんわり包んであげます。
はやく、末起、はやく逃げてきて……。
………………………
ついに方子の推測が真実となった。
翌日、方子は斜面に寝ころんで、貂のような、空の浮き雲をうっとりと眺めている。その、烈しい空、樹海は、緑の晃燿をあげ、燃えるような谿だ。
(末起がくる、末起を抱いて、あたらしい生活がはじまる……)
方子は、夢心地で沁み入るような幸福感に陽炎を追い、飛ぶ列車を想像していた。三人の生活――お祖母さまには、酷迫さがなくなる。末起の、心の傷もやがて癒えるだろう。そして二人の愛は、浄らかな至高なものとして続くだろう。
それに何故、女が女を愛してはいけないというのだろうか。此処でふたりの少女が、永遠の童貞を誓うのに……。
方子は、口をとがらせ、うっとりと抗議を呟いた。腹んばいの、したからは土壌の息吹きが、起伏が、末起の胸のように乳首に触れる。回春も近い。方子は自分の呼吸にむっと獣臭さを感じた。
底本:「航続海底二万哩」桃源社
1975(昭和50)年12月5日発行
初出:「週刊朝日読物号」朝日新聞社
1938(昭和13)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:ロクス・ソルス
校正:土屋隆
2007年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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