方子と末起
小栗虫太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)方子《まさこ》からの
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|不思議の国のアリス《アリス・イン・ワンダーランド》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
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一、髪を切られる少女
(方子《まさこ》からの手紙)
末起ちゃん、お手紙有難う。
ほんとうにお姉さまは、末起ちゃんのために二年越しの敷布《シーツ》のうえがすこしも淋しくはありません。
行くんですってね……? まい日末起ちゃんは学校の裏庭へ行って、やまももの洞に彫ったあれを見ているそうね。
あたくしも、あなたと散歩した療養所裏の林の、白樺の幹を欠かさず見ています。
一つは、あたくしが四年あなたが二年のとき、もう一つは、それから一年経った先達っての話ね。そして孰《ど》っちにも、あなたとあたくしの、頭文字が刻んである。
恋しい人、たがいに離したくない、懐かしい人……。
ところが、今日末起ちゃんのお便りをみますと、あたくしの名を、刻んだほうの切り口から樹液が湧きだして、あなたのほうへ、涙のように流れていたとかいう話。
それであなたは、もしやあたくしに変りごとがあったのではないか、それとも、自分の足らなさからあたくしを泣かせたのではないかと、まるで、涙ぐんだような詑び心地で――かえって、あたくしのほうが泣かされてしまいました。
でも、大丈夫よ。
末起ちゃんが、護ってくれるあたくしに、なんの変りがあるもんか。熱線も、近ごろでは良く、希望が持てて来ました。だけど、ひところからみるとたいへんに瘠せて、いま、末起ちゃんが抱いたら羽毛のような気がするでしょう。
だけど、いいの……心配しないでね。
あたくしは、もし淋しくなったら死んでしまうでしょうが。まい日、末起ちゃんが来てくれるのに、死ねるもんですか。あたくし昼間は、強いてなにも考えずに眠りませんけれど、夜は、月明をえらんで里から里へとわたり、末起ちゃんの寝顔をそっと見てくるんですのよ。そして末起ちゃんも、おなじなのを、ようくあたくし知っています。
何故でしょう。なぜ二人は、こんなに愛しあうんでしょう※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
それはね……なぜ太陽はかがやき子供は生れるかと、尋ねられるように、答えようがありますまい。あたくしも、ただ愛するから愛するとしか、いえません。おたがいに、女学校の二年と四年で知り合って、一年後には、あたくしのほうが療養所へ来てしまった……それだのに、かえって、末起はあたくしとともに病んでくれる。
ねえ、いつか末起ちゃんが寄越した、泣けるような手紙ね。あれには……
――神さまは、お姉さまには病む苦しみを与えましたが、あたくしには、苦しみをともにせよと、お姉さまを与えてくれました。お姉さまの、病はいわば、あたくしの病気ですわ。ともに苦しみともに堪えて、この世を切り抜けよと、お験しになったにちがいありません――と。
だけどもう、末起をこのうえ苦しめたかアない。そうなったら、いまの末起には、二重の負担ですもの。
あなたの心配ごとって簡単で分からないけど……。お義父《とう》さまのこと、手足も口も利けない気味の悪いお祖母さまのこと、それから四、五年まえに殺されたお母さまのことなど――よく知っているだけに、あたくし気になりますわ。
それに、寝ている間に髪の毛を切られたって、もしかしたら、お母さまが殺されるまえにあったと、同じことじゃない?
末起、ねえ、強くなって……。あんたは、ここでぐんと強くならなきゃアいけないわ。あたくしには、暗い家庭にいる末起がどんなだか分る……。考えると、こう離れているのがもどかしくなって来る……。だけど、もともと末起はあたくし、あたくしは末起なんだから、どんな、距離や遠さがあったからって、問題じゃないと思うわ。
末起、ねえ、すぐに詳しい返事を頂戴。
そのあいだ、咳や熱がたかまるお姉さまを思うなら、はやく、一刻も急いでね。
[#地から2字上げ]あなたの、方子より
………………………
相良末起の、母親が殺されたのは、四年ほどまえのことだった。
石町《こくちょう》で、大光斎といわれる大店《おおだな》の人形師、その家つき娘の、末起の母親おゆう[#「おゆう」に傍点]はそりゃ美しかった。色白で、細面ですらりとした瘠せ形で、どこかに、人の母となっても邪気《あどけ》なさが漂っていた。
ところが末起にとってみれば生みの父親であるところの、さいしょの養子は間もなく死に、二度目の、いまの謙吉は事業慾がつよく、連綿とした、老舗《しにせ》を畳んでセロハン会社などをやっていた。
それは、謙吉に時世をみる眼があったからだろうか、暖簾や、伝統などに執着せずさらっと止めたことは、多くの競争者のなかにあってマネキン人形などつくるよりも、大光斎としては有終の美であったにちがいない。
そうして、末起は、郊外の邸町で育ち、黒襟の、母や祖母とはそぐわぬ、ミッションスクールに入れられた。ところが、その年の夏ちかいころ、この一家におそろしい悲劇が見舞ったのである。
とつぜん、なんの予兆も前触れもなしに、意外な人が思わぬ人の手にかかってしまった。
それまでは、風波といっては別にない家庭で……、ただ、末起の母が結核にかかったこと、従って謙吉には外泊が多くなり、それやこれやで、相良の家は決して明るくはなかった。が、そうかといって、それだけでは殺人の理由にはならない。
他には、まだ詮索すれば、謙吉の不満もあったが……。
それは、世の常の養子の例に洩れず、まだおゆうの名義に電話までがなっていることだ。
ちょうど四年まえ、五月の末の鬱陶しい雨の朝だった。おゆうの病室になっている洋間のなかで、おゆうは、心臓を刺されて悶える色もなく、かすかに血を吐いただけで眠るように死んでいた。そして傍らには、祖母のまきが面彫りをにぎって、返り血に染み失神していたのである。
しかしそれなり、祖母の意識は旧《もと》どおりにならなかった。というよりも、おそらく一時の激情から醒め娘の死体を見、はっと、我にかえったときの衝撃であろうか、それなり、手足もうごけず口も利けず、ただ見、聴くだけの屍のようになってしまった。
その室は、まきの口から病室になったもので、可愛いいおゆうの病状を悪化させまいとして、扉に鍵をおろし謙吉を遠ざけていた。その夜も、鍵は鍵孔に差しこまれたままで、もちろん、合鍵でも開けられぬ状態にあった。しかも、庭に面した窓はかたく鎖され、湿った窓したの土にも足跡はない。
そうして、すべてがまきを指し、だが、そうなっても、なぜ後家を守ってまでも育てあげた、一人娘を殺したかという動機には、いくら探っても適確なものがない。女中の証言には、その前夜口論があったという。……さまで、悪くないおゆうには謙吉からはなれている、夜々のことが時々佗びしくなり、そういうときには、なにかにつけ辛く母に当り、その夜も、まきの賺《なだ》める声を廊下で聴いたというのだ。心理学者は母性愛と並行する母性憎があるという。その愛憎並存を老齢のまきにあてて、この事件はますます疑雲におおわれてしまった。
老齢によくある耗弱の発作だろうか。そうとすれば、まさにその後のまきは酬いだといってもいいのだ。
手も、足もうごかず、口も利けず、いずれは車椅子のなかで一生を終るだろうが、そうして、ただ呼吸をし、ぼんやりと見るまきの様は正視の出来ないものだ。刑罰か――死ぬに死ねない、惨苦を味わいながら余生を送らねばならぬのは……。
末起も、それについて折ふし考えさせられた。
(こんな良いお祖母さまが、そんなおおそれたことをするとは、どうしても、そうは私には思えない。口が利けたら、手足がうごいてものが書けたら……。きっと、お祖母さまの口から、途方もない事実《こと》が出るだろう。こんな良い人の、お祖母さまが悪魔になれるもんか)
末起は、ひとりでそういうように、決めていた。肉身が、憎み合ったらそりゃひどいというけれども、なんで、二人のあいだにそんな事実があろう※[#感嘆符疑問符、1−8−78] 自分への、家庭での愛を二分していた二人だけにいっそう悲しいことだった。
しかし、末起には覗き込もうにも、暈やっとした大人の世界である。
やがて、末起にも訪れるものが来た。童女期から、大人へ移ろうとする境界に立って、郷愁のような遣る瀬なさ、あまい昏惑のなかでも、末起はときめくようなこともない。
春の曙光は、お祖母さまのことで暗く色づけられていた。童心は、やがて淡くなり、薄れるように去るだろう……。しかし、お祖母さまのことだけは、永遠に残るにちがいない……。そうして、末起は病む薔薇のように、思春期を暗い心で漂っていた。
ところが、それから四、五ヶ月経ったころふと、祖母の眼に異様なものを発見したのである。
それは、瞬きをときどき止めることで、精いっぱいに、※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]らきながら瞬くまいとする努力は、必死に末起の注意をひき、認めてもらおうとするらしい。
その表出は、祖母にあらわれた、たった一つのものであった。しかしそれが、悦びか、悲しみか、慾求の表示でもあるのか――末起にもそこまでは分らなかった。ただ、お祖母さまの身体中でたった一つの、うごく筋肉である眼筋をとおして行われる……。見えざる口、聴えざる言語であろうか。
(ひょっとしたら……)
これで、もしや何事か分るのではないか――末起も胸を躍らせ、しげしげと注意するようになった。お祖母さまに、ながい闇が裂かれ、光があらわれた……。と思ったのも数度のあとは糠喜びにおわるのだった。
祖母が、涙をため瞬くまいとする、痛ましさは分っても単一なために、なにを訴え、なにを報らせようとするのかそれが分らない。しまいには、末起もがっかりしてしまい、それからは、思いついた以外には、格別見るようなこともなかった。
と、ある日――。はじめてお祖母さんのそれが、具象的なものに打衝《ぶっつ》かった。
それは、母が生前見ていた婦人雑誌を、末起がなに気なくひろげたときだった。口絵には、数頁にわたって髷型の写真があり、なかに、いちばん母にうつった毛巻の丸髷があった。不祝儀のとき、華奢で、すらりとした痩形の母は、かえって初々してそれは浄らかに黒ずくめのなかで、霊体のように見えるのだ。それには、末起でさえも渇仰をおぼえ、いまでも、母といえばその姿がうかんでくる。
が、気がつくと……祖母の※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]らかれた眼が前方の窓硝子にうつっている。瞬かない、眼にはいっぱいに涙がたまり、見てよ、はやく末起と、叫びそうなものが無音のうちに拡がってくる。
「これ、お祖母さま?」
訊いたとき、眼は精根尽きたか閉じられてしまった。涙は頬を濡らして滂沱と流れ、拭かれるとまた※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]らき、おなじことをくりかえすのだった。
たしかに、祖母がこの写真に、要求しているものがある※[#感嘆符疑問符、1−8−78] しかし、それが母への追憶だけとすれば、詰まるところは何事でもないわけだ。それから、末起が失望気味ながらページをくるとまたはじまった。
今度は梳き手がひとり背後にいて、荒歯櫛で解きそろえているところだった。してみると、祖母がいまなにごとを訴えているのか――末起にはやっと分ったような気がした。
どうした理由《わけ》か、末起に毛巻の丸髷を結えというのだ。
二、|不思議の国のアリス《アリス・イン・ワンダーランド》
「お祖母さま、これでいいこと……」
その本には、くわしく結いかたが出ていたので、やっと、ながいこと費って、曲りなりにも結いあげた。ところが、下梳きから癖直しをおわって、髷形が出来かか
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