うんだね。決勝点《ゴール》を間近にみながら黒焼になるなんて、情けない事には是非ならないで欲しいよ」
 そうして、夜は零度をくだる沙漠の旅がはじまった。万物声なくただ動いているのは、二人の影と頭上の星辰《せいしん》のみ。と、やや東のほうが白みかけてきたころだった。地平線上にぽつりと見える一点。
「こりゃ、いかん。驕魔台《ヤツデ・クベーダ》へゆかぬうちに、夜が明けてしまう。おい俺たちはまんまと失敗《しくじ》ったぞ」
 まったく、痛恨とはこの事であろう。みすみす、目前にみながら此処が限度となると、両様意味はちがうが、二人の嘆きは。……宝の山の鰻《うなぎ》のにおいを嗅ぐ、セルカークはことにそうであった。
「畜生、せっかく此処まで来てとは、なんてえこった。オクタン価八〇、最良|航空用燃料《ギャス》もなにも、夢になりおった。オヤッ、ありゃ折竹君、なんだね」
 と、指差された薄明の地平線上。突兀《とっこつ》とみえる驕魔台《ヤツデ・クベーダ》のうえに、まるで目の狂いかのような、人影がみえるのだ。早速、双眼鏡でみているうちに暁はひろがってゆく。しかし、死の原のここに、鳥の声はない。ただ、薄らぐ寒さと魔性のような人影。やがて、折竹はボロリと眼鏡を落し、
「ザチ」
 と、さながら放心したような呟き、
「ザチ※[#疑問符感嘆符、1−8−77] いったい何のこったね」
 とセルカークが訊いても聴えぬかのように、
「覗き穴はある。ザチはソ連の女ではなかった。真実、『大盲谷』に住むキンメリアの女王。おい、セルカーク、あれを見ろ」
 いわれて、目をこすりこすり驕魔台《ヤツデ・クベーダ》のうえをみると、今いた――ほんの秒足らずの瞬前までくっきりと見えていた、ザチの姿が掻き消えたように見えないのだ。覗き穴、彼女は「大盲谷」へ降りたのだろう。しかし、追おうにも、暁は濃い。朝の噴射とともに熱殺界となる、此処ではどうにもならないのだった。
 しかし、驕魔台のうえでザチを発見したことから、いよいよ「大盲谷」の実存性が濃くなってきた。そうしてこれには、むしろ手も付けられない塩の沙漠よりかも、「大地軸孔《カラ・ジルナガン》」のほうを攻撃してはと、なったのだ。そのころ、大地軸孔探検についての、国際紛争が解決した。英ソ双方とも監視者をだすことになり、英はセルカーク、ソ連は、極氷研究家のオフシェンコという男。また、折竹もセルカークの計いで、この探検に隊長として加わったのである。
 沙漠、峻嶮、寒熱二帯の両極をもつアフガニスタン。慓悍無双といわれるヘタン人の人夫をそろえ、いよいよヒンズークシの嶮を越え「パミールの管」といわれる、英ソの緩衝地帯を「大地軸孔」へ進んだのである。いまは、高山生活一か月にまっ黒に雪焼けをし、蓬々《ほうほう》と伸びた髯《ひげ》を嶽風がはらっている。
 そしてちょうど、カプールを発った五十日目あたりに、温霧谷《キャム》の速流氷河の落ち口にでたのだ。
「凄い。ここでは、氷だけが生物《いきもの》だ」
 ※[#「釐」の「里」を「牛」にしたもの、第3水準1−87−72]牛《ヤク》のミルクを飲み飲み、断崖のくぼみから、幹部連が泡だつ氷河をながめている。氷に、泡だつという形容はちと変であるが、この氷河の生きもの的性質を、説明するのはそれ以外にはない。
 噛みあう氷罅《クレヴァス》、激突する氷塔の砕片。それが、風に煽《あお》られて機関銃弾のようになり、みるみる人夫の顔が流血に染んでゆくのだ。まさに流れる氷帯ではなく、氷の激流。ここだけは、永遠に越えられまいと思われた。

   大地軸孔の悲歌

「君、ちょっと折り入っての話がある」
 隊が立往生をしてから、一か月後のある夜。こっそり折竹の天幕《テント》へ、セルカークが入ってきた。彼は、周囲をたしかめてから、密談のような声で、
「取らぬ狸の、皮算用かもしれんがね。いずれは大盲谷の油層が、われわれの手に入るだろう。しかし、そうなったとき分け前が出るようじゃ、儂《わし》は馬鹿馬鹿しいと思うんだよ」
「へえ、というのはどういう意味だね」
「それは、オフシェンコのことだ」
 とセルカークはいっそう声を低め、
「奴は、最後まで頑張るといっている。けさ、君とヒルト博士が大喧嘩をした後で、こっそり奴の意見を聴いてみたんだよ。するとだ、奴は馬鹿に昂然としてね。――任務だ、最後まで君らと共に――なんてえ、えらい鼻息なんだ」
 その日の朝、温霧谷の速流氷河の攻撃時期について、彼と独逸航空会社のヒルトとが大激論をした。ヒルトは、速流氷河をわたる方法なしと言う。これは練達山岳家としての当然の論。それに反して、季節風《モンスーン》の猛雨が始まったら登行をするという、この折竹の説は暴論といおうか、まことに、常識外れの馬鹿馬鹿しいものだった。そして、ついに
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