彼に日本人らしい犠牲の念を呼び起してきた。
(大塩沙漠へゆくことは、けっして無意義ではない。もしも覗き穴があって「大盲谷」に達していれば、俺は「英波石油」の油層の下へゆけるのだ。またもし、大盲谷の広さが真実とするならば、ソ連コーカサスへもメソポタミア油田下へも、なんとか手段を尽せばゆけないものでもない。
そうだ。故国一朝有事の際の、破天荒な電撃――。一隻の潜水艦、十人の挺身隊。もし覗き穴さえわかれば、それで事足りるではないか。油層下からの処置で、油田は渇れるだろう。また、十人の犠牲で全油田爆破ともゆける。その下地を、俺はいま作りあげようとするのだ。で俺が、もしも大塩沙漠から生還した場合、俺は国家への協力をほこれる。また、万が一の際は知られない犠牲として、俺は個人としての最高の死を遂げることになる。犠牲――。それも、知られないほど、美しい)
夜が明けかかり、砂丘の万波にようやく影が刻まれてゆく。空には、獅子《しし》座が頭をさげて西の空へ下りかけ、やがて東からのぼる東亜の太陽の前駆、白鳥、ケフェウス、カシオペアが薄明のなかをのぼってくる。それを……折竹はさし招くような意気だった。
ところが、その二日後の夜。オーマンの都ムスカットで行われた王子ご新婚式に不思議な出来事が起ったのだ。
稜※[#「山+曾」、第4水準2−8−63]《りょうそう》たる岩山のしたの町ムスカットのその夜は、イラン、エジプトご新婚の賓客《ひんきゃく》をそっくりひき受け、ヨーロッパ社交界に鳴る綺《きらび》やかな連中が、ふうふう暑熱にうだりながらオーマン湾を渡ってきたのだ。まず客人《まろうど》は、英皇太后メアリー陛下の御弟エースローン公、ドイツはモスクワ駐※[#「答+りっとう」、第4水準2−3−29]《ちゅうさつ》大使シュレンバーグ伯、またエジプトの女王ナズリ陛下、イタリアは皇甥スポレート侯爵。こうした方々が、白壁の小家が櫛比《しっぴ》するこの狭衝の町、また、イラクのバグダットと肩をならべる世界一暑い首府の――ムスカットを見ちがえるように飾ってしまったのである。
その海岸の広場にある王宮といっても、簡易な三層の漆喰建《しっくいだて》であるが、ともあれ、オーマンを統《す》べる大元首のいますところ。花火、水晶の燭架《キャンドル》眼眩《まばゆ》いなかに、今宵の客人がいと静かに参上する。
「もう、おいではこれだけであろう」
「ふむ、いかさますみ申したようであるが」
裸足《はだし》の、二人の式部官が次第書とつき合せてみると、もうお客はこれで終っている。きょうの御儀に日本綿布の外衣《バーナス》をそろえた、儀仗兵も休ませなくてはならない。さあ、腹も減ったし、羊も焼けている。胡椒飯《ピラフ》を腹さんざん詰めこもうではないか――となった時。
とつぜん、昇降階のしたでザザザザという太鼓の音。お客だ、と一同は慌てふためいて列をそろえた。とそこへ、たくみにガウンを捌いてくる※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]《ろう》たけた一人の婦人。みれば、頭上には王冠を戴いている。
「失礼でございますが」
と、式部官の一人が恭々《うやうや》しく訊ねたのである。
「次第書にございませんので、お言葉を願います。いずれの国の、どなた様でいられましょう」
「キンメリアの女王」
「へっ」
「このオーマンは、なんという無礼な国である」
とその婦人が凛然《りんぜん》と言い出した。
「わたくしは、前もって儀式書を頂いている。それには、使節の随員は宮廷よりの馬車に分乗し、使節の馬車に前行すべし――とありますが、随員のはおろか、わたくしのも参りませぬ。当国は格式を重んじ典礼を尊ぶ点に於いて、回教国一と聴いておりますが」
「恐れいります」
と、式部官が首をさげた時その婦人の姿は、昇降階に続く「騎士の間」に消えていたのである。その場には、侍従長やら将軍やらがいたが、凛とあたりを払うその婦人の威厳には、誰も止めるものがなかったのだ。
キンメリア――それは地図上にない国である。
生きている氷河
折竹は、舞踏にも加わらず宮苑のなかを歩いていた。スミルナの無花果《いちじく》、ボスラーの棗椰子《なつめやし》、エスコールの葡萄――。近東の名菓がたわわに実っているところは、魔宮か、魅惑の園のよう。そこへ、日時計のついた噴泉が虹をあげ、風は樹々をうごかし、花弁は楽の音にゆすられる。彼は酒気をさまそうと、ぽつねんと亭《ちん》にいたのだ。
(セルカークの奴、この辺じゃなかなかの羽振りじゃないか。マア情報省の機関区長どころだろうが……、どうして領事くらいは敵わんような勢力がある)
そこへ、植込の陰からぷうんと女の匂いがした。棕櫚の花粉のついた裳裾がみえたとき、彼の横手からすうっと寄り添ってき
前へ
次へ
全12ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング