言いつけたのである。
「あの氷河は、じつを言うと一つのものではない。猛烈な吹雪があって積ったやつが、氷河のうえに固まって乗っているんだ。あいつが動きだすと氷海嘯《アイス・フルット》というのになる。危険だ。ケプナラ君に避難をいってくれ給え」
 と、その日の夜半ちかいころ。とつぜん、万雷の響を発し、地震かと思われる震動に、折竹が寝嚢《スリーピング・バッグ》からとび出した。出ると、じつに怖しいながら美しい火花に包まれた氷海嘯が、向うの谿《たに》へ落ちてゆく。よかった、予知したことがなによりだった。と、まず一安心となった。その翌朝のことだ。とつぜん一人のエスキモーの、喧《けたた》ましい声で起されたのである。
「隊長、大変でがす、起きてくらっせえ。ザンベックさんはいねえし、ケプナラさんはオッ死《ち》んでいるだ」
 驚いてゆくと、ケプナラは避難していない。やはり、以前の所に天幕《テント》をはっていて、みるも哀れな死を遂げているのだ。氷海嘯の端に当ったらしく鑢《やすり》で切ったように、左腕、左膝から下が無残にもなくなっている。折竹は、おのぶサンを呼んで、険しい目で見つめ、
「君は、昨日僕の命じたとおりに、言ったのだろうね。ケプナラ、ザンベック両君に避難しろって」
「ああ、あんなこと」と、おのぶサンはケロッとして、
「あたし、なんだか忘れてしまったらしいよ」
「馬鹿っ」と怒気心頭に発した折竹ががんと一つ殴りつけ、
「なんのために……。君は、あの二人を殺してしまったも、同じだ」
「殺していいでしょう。どうせ、殺さなければ今夜あたり、あんたが殺《や》られるにきまっているから……」
「なに」
 と、気を抜いたところへおのぶサンの手が伸びて、折竹の頸筋をつかみ、ぐいと吊しあげた。河馬女《ファティマ》の大力には、彼も敵《かな》わない。そのまま、片手にさげた彼をぐんぐん運んでゆき、氷罅《クレヴァス》のなかへぶらんと宙吊りにしたのだ。
「人が、せっかくお前さんを助けてやったのに、引っ叩くなんて……しばらく恐い思いをして、頭を冷ますがいい。お前さんは、ルチアノの『フラム』号をどう思っているね」
「オイ、上げろよ」折竹も悲鳴をあげはじめた。下をみれば、千仭《せんじん》の底から燃えあがる、青の光。
「じつを話すと、あのロングウェルとルチアノは同腹《ぐる》なんだよ。一体、アメリカというのがそんなところで、正邪も仇同志も一度|実業《ビジネス》となれば、それまでの行き掛りなんぞは、何でもなくなってしまうんだ。で、クルトがすべてをロングウェルに話したね。お前さんには言わなかったろうが鯨狼《アー・ペラー》が捕われた位置を、ロングウェルは経度まで知っている。すると、海獣が遠い陸地のなかにいる。可怪《おか》しい。それに、ミュンツァ博士のあの無電があるだろう。ことによったら、海峡みたいのものがズウッと内地へ伸びているんじゃないか、──ロングウェルはこう考えたんだ。
 しかし、こんな奥地へ行けるものといや、お前さんのほか誰があるだろう。こいつを一番利用してやって、事《こと》成就《じょうじゅ》の暁には殺《や》ってしまおう。というのが腹黒検事の考えさ。だから、じぶんを隠すためにルチアノを使って、すべてをギャングの仕業らしく見せかけたわけだ。ケプナラも、頭巾をとりゃロングウェルの腹心。へん、ご親友がお気の毒さまだったね」
「だが、どうして君は、それを知ったんだ」
「立ち聴きさ。あんたが、曲馬団《サーカス》にくるまえケプナラがやってきて、親方とひそひそ話をやっていた。うちの親方だって、猶太《ジュウ》仲間だから」
「いったい、猶太人《ジュウ》がどうしたというんだ」
「あの、ツイオン議定書とかにある、猶太《ユダヤ》建国さ。こんな氷の島だから何にもなるまいけれど、とにかく、ながい懸案だった猶太国ができあがる。そのため書いたロングウェルの筋書に、うかうかお前さんが乗っちまったというわけさ。馬鹿、私がいなかったら、どうなったと思う。とうに、ニューヨークにいるうち打ち明けようと思ったけれど、私の言うことなんぞは信用しまいと思ったし……。第一、お前さんは私が嫌いだろう」
 おのぶサンは、それだけしか言えなかった。こみあげてくる恋情を、言い得ない悲しさ。折竹も、感謝の気持溢れるようななかにも、氷海嘯のため、食糧の大部分をうしない、「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」探検を断念せねばならぬ、切なさ。ただ、米大州に現われたはじめての日本領を、政府が追認するのを切に祈りながら……。氷罅《クレヴァス》のなかでブランブランに揺れていたのだ。



底本:「人外魔境」角川ホラー文庫、角川書店
   1995(平成7)年1月10日初版発行
底本の親本:「人外魔境」角川文庫、角川書店
   1978(昭和53)年6月1
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