と、橇《そり》をまっしぐらに走らせてゆく。まばゆい、曼珠沙華《まんじゅしゃげ》のような極光《オーロラ》の倒影。吹雪、青の光をふきだす千仭《せんじん》の氷罅《クレヴァス》。──いたるところに口を開く氷の墓の遥かへと、そのエスキモーは生きながら呑《の》まれてゆく。
 と、いうように氷の神秘と解釈する。それだけでも、「|冥路の国《セル・ミク・シュア》」は興味|津々《しんしん》たるものなのに、一度折竹の口開かんか、そういう驚異さえも吹けば飛ぶ塵のように感じられる。それほど……とは何であろう※[#疑問符感嘆符、1−8−77] 曰く、想像もおよばず筆舌に尽せず……ここが真の魔境中の魔境たる所以《ゆえん》を、これからお馴染《なじみ》ふかい折竹の声で喋《しゃべ》らせよう。
「なるほど、君も『|冥路の国《セル・ミク・シュア》』について、ちっとは知っているね。だが一つだけ、君がいま言ったなかに間違いがあるよ。というのは、『|冥路の国《セル・ミク・シュア》』の招きでエスキモーが橇《そり》を走らせる。まるで、とっ憑《つ》かれたようになって、夢中でゆく。というなかに、一つだけある」
「へええ、というと何だね」
「つまり、生きた人間ではないからだ。その、橇をはしらせるエスキモーは、死んだやつなんだ」
「そうだろうよ」と、私はひとり合点をして、頷《うなず》いた。ついに、折竹も語るに落ちたか、魔境中の魔境などと偉そうなことをいうが、やはり結句は、死霊あつまるというエスキモーの迷信|譚《たん》。よしよし日ごろやっつけられる腹癒《はらい》せに今日こそ虐《いじ》めてやれと、私は意地のわるい考えをした。
「なるほど、死んだ人間が橇をはしらせる。じゃそれは、魂なんてものじゃない、本物の死体なんだね」
 と参ったかとばかりに言うと、意外なことに、
「そうだ」と折竹が平然というのである。
「死体が橇を駆《か》る。ふわふわと魂がはしらせる幻の橇なんて、そりゃ君みたいな馬鹿文士の書くことだ。あくまで、冷たくなったエスキモー人の死体。どうだ」
 私は、しばしは唖然《あぜん》たる思い。すると、折竹がくすくすッと笑いながら、懐《ふところ》から洋書のようなものを取りだした。みると「|グリーンランズの氷河界《ユーベル・グレーランズ・グレッチェルウェルト》」という標題。一八七〇年にグリーンランドの東北岸、マリー・ファルデマー岬
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