スる粒が宿るということは、もっと、大きな大きな感情の昂《たか》まりでなければならぬ。では、なにが折竹をそうさせたかというに……さっき彼が私に話した新援蒋ルートの所在を、木戸が「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」をさぐる飛行中に発見したからである。
揚子江上流の一分流の Zwagri 《ツワグリ》河が、「天母生上の雲湖」とバダジャッカの中間あたりを流れている。絶壁と、氷蝕谷の底を、ジグザグ縫うその流れは、やがて下流三十マイルのあたりで激流がおさまり、みるも淀《よど》んだような深々とした瀞《とろ》になる。そしてその瀞が、断雲ただよう絶壁下を百マイルも続いている。
ところが一日、木戸がその瀞をゆく見馴れぬかたちの舟をみたのだ。どうも、土地のタングウト土人の樅皮舟《メンヌサ》ともちがう。しかも、それが一つや二つではなく二、三十艘も続いている。で結局、それが英海軍でつかう兼帆艀《ピンネス・バージ》だったのだ。とにかく、チベットを横切り「天母生上の雲湖《ハーモ・サムバ・チョウ》[#ルビは「天母生上の雲湖」にかかる]」を左に見、 Zwagri 《ツワグリ》の大瀞をくだって陸揚げしたものを、一路重慶へもちこむ新援蒋ルートだ。
折竹は、木戸からその報を得たとき、これは黙視できぬ、と考えた。といってそこは、万嶽雲にけむる千三百キロのかなたである。彼は、切歯扼腕《せっしやくわん》、歯噛《はが》みをして口惜しがったのだ。
するとそこへ、もしもそこへ行けたならという仮定のもとに、そのルート破壊の大奇案がうかんできた。
それは、奔湍《ほんたん》巌をかむ急流の Zwagri 《ツワグリ》が、なぜそこまでが激流で、そこからが瀞をなすのか――それを、折竹が謎として考えたからだ。瀞とは、数段の梯状《ていじょう》をなす小瀑の下流か、それとも、ふいに斜状の河床が平坦になるかなのだが、この Zwagri 《ツワグリ》の場合はいずれのものでもない。とここに、「天母生上の雲湖」の九十九江源地《ナブナテイヨ・ラハード》からでて、地下の暗道をとおり水面下に注ぐ川があるのではないか。暗黒河は、中央アジアの大名物である。それが、「天母生上の雲湖」付近に必ずしもないとはいわれまい。
つまり、 Zwagri 《ツワグリ》のその点をさぐって暗河道をふさぐか、それとも「
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