Aときおりは愛使《キューピッド》が扉《ドア》を叩くことがあるだろう。ところが、亭主の八住ときたら、いつも精神的な澄まし汁みたいなもので、その中には肉片もなければ、団子一つ浮いちゃいないんだ」
「なるほど、そうなるかねえ」
と法水は、検事の好諧謔にたまらなく苦笑したが、めずらしく口を噤《つぐ》んでいて、彼はいっこうに知見を主張しようとはしなかった。
そして、「ニーベルンゲン譚詩《リード》」を片手に下げたまま、旧《もと》の室にぶらりと戻っていった。が、はからずもそこで、この事件の浪漫《ローマン》的な神秘が、いちだんと濃くされた。
彼はそこにいる三人を前にして、妙に底のあるらしい言葉を口にした。
「僕は、だんだんとこの事件が、いわゆる法則でないと呼ぶものに、一致するような世界であることが判ってきました。
それは、純然たる空想の産物で、まったくの狂気が勝を制する世界なのです。その中には、神や精霊が現われてきますが、しかしそれは、その世界でのみあると信じられているもので、少なくとも僕らは、一応それに額縁を嵌《は》めてみる必要があると思うのです。
ところでこれは、いったい流星の芝居なんでしょうか。それとも、地上の出来事なんでしょうかね」
と本の一個所を開いて、彼は読みはじめたが、その内容は、白い地に置かれた黒そのもののように、対象をくっきりと泛《うか》び上がらせた。
When the blood−stain'd murderer comes to the murder'd nigh, the wounds break out a−bleeding.
【血に汚れし殺人者、惨屍《むくろ》のかたわらに来たるときは、創《きず》破れて血を流すと云う】
殺人者を指摘する屍体の流血――それを法水が読み終ると、一同の眼は期せずして犬射の顔に注がれた。
なぜなら、八住の死後十時間後に起った流血は、彼が、その傍らに立っているさなかに始まったからである。
しかし、犬射の驚きの色はやがて怒りに変って、
「遺憾ですが――法水さん、それは僕の洒落《しゃれ》じゃありませんよ」
とどこか皮肉な調子ながら、悲しげに云い返した。
「いや、それどころじゃない、怖ろしい空想です。そんなことから、この事件はいっそう面倒なものになりましょう」
「僕は、そうとはけっして思いませんがね」
法水は、力
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