一瞥《いちべつ》すると同時に、私の眼は、まるで約束されたもののようにヴィデさんに向けられました。
すると、あの方だけは、椅子の上で落着きすましていて、まるでその態度は、当然起るべきものが起ったとでも云いたいようで、とにかくヴィデさんだけには、夫の変死がなんの感動も与えなかったらしいのです。
まったくあの方には、底知れない不思議なものがあるのですわ」
とはいえウルリーケとて同じことで、夫の死に慟哭《どうこく》するようなそぶりは、微塵《みじん》も見られなかったのであるが、まもなく法水は、その理由を知ることができた。
現場の扉《ドア》は、鉄板のみで作られた頑丈な二重|扉《ドア》で、その外側には鍵孔《かぎあな》がなかった。というのは、万が一クローリン瓦斯《ガス》が発生した際を慮《おもんぱか》ったからで、むろん開閉は内側からされるようになっていた。
そして、扉が開かれると、そこに漲《みなぎ》っている五彩の陽炎《かげろう》からは眩《くら》まんばかりの感覚をうけ、すでに彼には現場などという意識がなかった。
そのせいか、眼前に横たわっている八住の死体を見ても、色電燈で照し出された惨虐人形芝居《グランギニョール》の舞台としか思われず、わけてもその染められた髪には、老|女形《おやま》の口紅とでも云いたい感じがして、この多彩な場面をいっそうドギついたものに見せていた。
ところがその時、死体とは反対の側に、一人の盲人が佇《たたず》んでいるのに気がついた。
それは、詩人の犬射復六だったが、そのおり屍体に何を認めたのか、法水は振り向きざま犬射に訊ねた。
と云うのは、なんともいえぬ薄気味悪い事だが、すでに死後十時間近く経過していて、傷口は厚い血栓で覆われているにもかかわらず、現在そこからは、ドス黒く死んだ血が滾々《こんこん》と流れ出ているのである。
その瞬間、この室の空気は、寒々としたものになってしまった。
犬射は美しい髪を揺すり上げて、割合平然と答えた。
「なに、私なら、今しがたここへ来たばかりなんですよ。艇員の方に手を引かれて――さあ五分も経ちましたかな。
それに、用というのが、実は向うの室にありまして、御承知のとおり、乗り込むとすぐこの騒ぎだったものですから、てんで艇長の遺品《かたみ》には、手を触れる暇さえなかったのです。
なに、私が死体を動かしたのではないかって
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