まもなく、その鍵は二つの扉《ドア》に当てがわれたが、すむと再び旧《もと》の場所に戻して、八住は発艇の合図をした。
 艇がしばらく進むうちに、潜航の電鈴が鳴り、検圧計に赤い電灯《あかり》が点いた。そして機械全体が呻吟したような唸《うな》りを立てると、同時に、足もとの水槽に入り込む水の音が、ガバガバと響いた。
 水深五|米《メートル》、十|米《メートル》――一瞬間泡がおさまると、そこはまさに月夜の美しさだった。
 キラキラ光る無数の水泡が、音符のように立ち上っていって、濃碧のどこかに動いている紅い映えが、しだいに薄れ黝《くろ》ずんでゆく。
 すると、間遠い魚の影が、ひらりと尾|鰭《ひれ》を翻《ひるがえ》して、滑《す》べらかな鏡の上には、泡一筋だけが残り、それが花瓣のような優《しと》やかさで崩れゆくのだった。
 水中にも、地上と同じような匂いが、限りなく漂っていて、こんもりと茂った真昆布《まこんぶ》の葉は、すべて宝石《たま》のような輪蟲《りんちゅう》の滴を垂らし、吾々《われわれ》はその森の姿を、いちいち数え上げることができるのだ。
 そしてその中を、銀色に光るかます[#「かます」に傍点]の群が、軍兵のような行列を作ったり、鯖が玉蟲色に輝いたりなどして、それが前方に薄れ消えるときに彼らは星を降り撒《ま》き、あるいは甘鯛《あまだい》が、えごのり[#「えごのり」に傍点]の捲毛に戯れたりして、ときおり海草の葉がゆらめく陰影《かげり》の下には、大|蝦《えび》のみごとな装甲などが見られるのであるが、その夢の蠱惑《こわく》は、しだいに水深が重なるとともに薄らいでいった。
 もはや三十|米《メートル》近くになると、軟体動物の滑らかな皮膚が、何かの膀胱のように見えたり、海草は紫ばんだ脱腸を垂らし、緑の水苔で美しく装われている暗礁も、まるで、象皮腫か、皺ばんだ瘰癧《るいれき》のように思われるのであるが、そうして色がしだいに淡く、視野がようやく闇に鎖《とざ》されようとしたとき、ふと異様な物音を、ウルリーケは隣室に聴いたのである。
 と、すぐさま、合いの扉《ドア》を叩く犬射の声がした。
 が、生憎《あいにく》とそれは、機関の響きで妨げられたけれど、絶えずその物音は狂喚と入れ交じって、隣室からひっきりなしに響いてくるのだ。
 やがて、鎖《とざ》された扉が開かれると、その隙間から、硝子《ガラス
前へ 次へ
全74ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング