玉屋の折檻部屋で、小式部が挿していたとか云う、それではなかったのであろうか。案の状杉江は、六十年前の心中話しに遡って行って、その時陰暗の中でお筆が勤めていた、或る一つの驚くべき役割を暴露したのであった。
「そう申せば、その黒笄の形と云うのが、あの時小式部が最後に挿していたと云う、それに当るでは御座いませんか。それに光子さん、その時お祖母さまは、立兵庫に紅頭の白鼈甲をお挿しになっていたので御座いますよ。それで、あの方の悪狡い企みをお聴かせ致しますが、やはりそれも同じ事で、今申した色の移り変り。その時は、原因が周囲《ぐるり》にあったのではなく、今度は小式部の眼の中にあったのです。と申しますのは、何度も逆かさ吊りになると、視軸《めのなか》が混乱して、視界《あたり》が薄暗くなって来るのです。それですから、その真下に当る硝子戸の裏に、銀沙を薄く塗って、お祖母様はそれに御自分のお髪《ぐし》を近付けていたのです。大体、銀沙を薄く塗った硝子板と云うものは、その塗った方の側に映っている像は、その背後《うしろ》から見えますけれども、却って裏側にあるものは、それに何一つ映る事がないのです。で御座いますもの。小式部さんが逆か吊りになると、視界《あたり》が朦朧として来て、下の硝子板に映っているお祖母様の紅頭《べにがしら》と白鼈甲の笄が、黒と本鼈甲の自分のもののように見えてしまうのです。また、それから半回転して天井の鏡を見ると、そこにもやはり同じものが映っているのですから、当然回転が早められたような癇《かん》の狂いを感じて、そのまま失神《きのとお》くなるような眩暈を起こしてしまったのです。つまりその隙にお祖母様は、薬草《くさ》切りで可遊の背後から手を回して刺したのでしたし、それから何も知らずに気を失っている小式部を絞め上げるのは、何の雑作ない事では御座いませんか。云うまでもなく、二人の仲を嫉《やっ》かんだ上での仕業だったでしょうが、それからと云うものは黒笄の逆立ちを、お祖母さまは何よりも怖れられたのです」と云い終ると、杉江はお光の頬に熱い息を吐きかけて、狂気のように掻い抱いた。そして血の筋が幾つとなく走っている眼を宙に釣り上げて、杉江は胸の奥底から絞り出したような声を出した。
「ですけどお嬢様、今になって考えてみると、あの時私が――怨念《うらみ》も意地も血筋もない私が、何故《どうして》ああ云う
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