でしょう。ですが、その一時間も前に、絶命が医学的に証明されているのですよ。」
まさに、心臓が一時に凝縮したと云う感じだった。それより、一体どこに推定の根拠があるのか?――法水の意外な言葉に、周囲《ぐるり》の人々はいっせいに驚かされた。が、ジナイーダだけは水のように静かだった。
「医学的にどうこうは、問題ではございません。この世界は、計り知れない神秘な暗号と象徴に充ちているのですから。私は、正しくそれが父だと信じております[#「正しくそれが父だと信じております」に傍点]。しかも、その音は非常に明瞭《はっきり》しておりまして、聴き誤まる惧《おそ》れは毛頭もなかったのです。またたとえそれが、肉体の耳では聴えぬ消された音であったにしても、必ずや私には、異ならない啓示となって現われたに違いございません。」
なんたる厳粛さであろう!?[#「!?」は一文字、面区点番号1−8−78] 法水もそれに酬《むく》いるかのよう、沈痛な声音で応じた。
「なるほど。しかし、ハインリッヒ・ゾイゼ(十三世紀|独逸《ドイツ》の有名な神学者)がしばしば見た耶蘇《イエス》の幻像と云うのは、その源が親しく凝視《みつ》めていた聖画にあったと云いますがね。それに、誰やらこう云う言葉を云ったじゃありませんか。――自分の心霊を一つの花園と考え、そこに主が歩みたもうと想像するこそ楽しからずや[#「自分の心霊を一つの花園と考え、そこに主が歩みたもうと想像するこそ楽しからずや」に傍点]――とね。」
最後の一句が終らぬうちに、ジナイーダの総身に細かい顫動《せんどう》が戦《おのの》いた。が、次の瞬間、彼女はカラカラと哄笑《たかわらっ》って、「これは驚きましたわね。私を犯人に御想像なさるとは恐縮ですわ。私達が現在父からどんな酷《ひど》い目にあわされていようと、孤児院から救ってくれた大恩を考えれば、そんなことなんでもないことですわ。この点をとくと御記憶下さいまし。それに、もう一つ法水さん、永い間|費《かか》って自然科学が征服したものと云うのが、カバラ教や印度《インド》の瑜伽《ユカ》派の魔術だけに過ぎないと云うこともね……」
法水は、神学《セオロジイ》との観念上の対立以外に、嘲笑を浴びたような気がしたが、ジナイーダは相手の沈黙を流眄《ながしめ》に見て、いよいよ冷静に語《ことば》を続ける。
「で、ともかく洋燈《ランプ》を点して、覗《のぞ》こうと致しますと、外側から鍵を下したと見えて、扉はビクとも致しません。そこで妹を起しましたが、二人とも恐怖のために、梯子を上って洋燈を消しに行くことさえ出来なかったのです。すると、そのうち程なく鐘が鳴り始めました。」
「それが妙なんですわ。」イリヤが口を挾んだ。「最初にゴーンゴーンと大鐘が鳴り出して、それから小鐘が始まったのですから。」
「エッ、なんですって!?[#「!?」は一文字、面区点番号1−8−78]」法水は一度で血の気を失ってしまった。ところが、ジナイーダも口を添えて、イリヤの前言を繰り返すのだった。
それこそ、文字通りの鬼気であろう。鳴鐘の機械装置はいかなる方法によっても、そう云う顛倒《てんとう》した鳴り方を許さぬのである。大体法水にしろ、鐘の鳴った原因を犯人の行動の一部に結びつければ、この事件には芥子粒《けしつぶ》程の怪奇もないと信じていた矢先に、イリヤの一言はたちどころに推理の論理的な進行を破壊してしまった。検事もブルッと身慄《みぶる》いして、
「そう云えば、たしかにそうだったよ。僕は大変なところをうっかりしていたもんだ。」
法水は堪らなくなったように扉の外に飛び出して、何度も鐘を振り仰いでいたが、それを見て、拡大鏡を振り廻していた一人の刑事が側に寄って来た。
「法水先生、鐘ですか? しかしあの大鐘は今も上って見たところですが、二三人かかって手で押したくらいでは、歯車があるのでビクともしませんぜ。また、内部の振錘《ふりこ》を手で動かしたにしたところで、音だけは妙に詰ったような鳴り方をしますが、肝腎《かんじん》の鐘が動かないのですから、振動を上の小鐘に伝えることが出来ないのです。」
「なるほど、すると、鐘を傾けるのは、振綱以外にないと云うのだね。いや有難う。」
法水はふたたび姉妹の室に戻ったが、こうして鐘の性能いっさいを知り尽してしまうと、もうこの上、鐘声の不思議を科学的に考察する余地はないと思った。第一それより、なにゆえ鳴らされねばならなかったか?――が判らなくなってしまった。それがもし犯人だとすれば、どうして自分自身の存在を曝《さら》け出すような危険を冒してまで、あえてする必要があったのだろうか?(それに安易《イージー》な解釈法を当てると、鐘が鳴った時、下の鐘楼には死体のほか誰一人いなかったと云う結論になってしまうのだ。)しかし
前へ
次へ
全19ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング