歩みたもうと想像するこそ楽しからずや」に傍点]――と云ったっけね。その時ジナイーダは確かに驚いたらしい。無論僕のつもりでは、それを一つの脅迫的な比喩《ひゆ》として使ったに過ぎないのだが、しかしジナイーダを驚かせたのは、自分が犯人に擬せられたのを悟ったからではない。元来犯罪者と云うものは、そう云う点には予《あらかじ》め用意があるものだからね。では、なぜかと云うと、その一句の文章と云うのが、自身の不思議な夢幻状態を語った、カルメル派の創始者聖テレザの言葉だからだよ。西班牙《スペイン》の女はカルメンだけと思っちゃ間違いだぜ。その昔、神秘神学の一派を率いて、物体浮揚《レヴィテーション》や両所存在《ビロケーション》まで行ったと云う偉大な神秘家がいたのだ。それにもう一つ――これはまず日本に五百人と馴染《なじみ》のない顔だけど、聖テレザの後継者と呼ばれる僧モリノスの画像が、寝台の横手の壁にかかっていたからだよ。」
「そう云えば、確かに中世紀の修道僧らしい画像があったよ。」検事が合槌をうつと、
「ウン、そこでだ。ジナイーダが童貞女生活のうちに、どの程度までこの一派の修道を積んだか? また、なぜ嘘を云わねばならなかったか?――判らないけれども、」と云いかけて、法水は俄然厳粛な表情になった。「とにかく、ただ一人虚偽の陳述をしたと云う点だけでも、あの女が一番犯人に近いと云えるね。」
 熊城はびっくりして叫んだ。
「冗談じゃない。君は鍵のことを忘れてしまったのか。」
「それがさ。ここの扉口《とぐち》は回転窓もないし、下に隙もない。けれども、糸で鍵を操る術はヴァンダインの『ケンネル殺人事件』だけでつきちゃいないよ。君、お化け結びと云う結び方を知ってるだろう――一方の糸は喰い込む一方だが、片方のを引くと、スルリと解けてしまうのを。マア、実験すれば判ることだ。」
 法水は鍵の輪形をお化け結び[#「お化け結び」に傍点]で結んで、ラザレフの室の扉の前に立った。
「憶えておき給え。最初に鍵を差し込んで、もう一捻《ひとひね》りで棧が飛び出すと云う瀬戸際まで捻っておくんだ。そして、片方の糸を――解けない方だよ――把手《ノッブ》の角軸に結びつけないで二回り程|絡《から》めておいて、間をピインと張らせておく。それから、片方引くと解ける方のを鍵穴から潜《くぐ》らせて、それには幾分|弛《たる》みを持たせておくんだ
前へ 次へ
全37ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング