》を横たえたのであるが、その矢先に、この忘られ掛けた余燼《よじん》が赫《か》っと炎を上げたと云うのは、荒廃し切った聖堂に、世にも陰惨な殺人事件が起ったからである。(読者は次頁の図を参考としつつお読み願いたい。)

     一

 推理の深さと超人的な想像力によって、不世出の名を唱《うた》われた前捜査局長、現在では全国屈指の刑事弁護士である法水麟太郎《のりみずりんたろう》は、従来《これまで》の例だと、捜査当局が散々持て余した末に登場するのが常であるが、この事件に限って冒頭から関係を持つに至った。と云うのは、彼と友人の支倉《はぜくら》検事の私宅が聖堂の付近にあるばかりでなく、実に、不気味な前駆があったからだ。時鐘の取締りをうけて時刻はずれには決して鳴ることのない聖堂の鐘が、凍体《とうたい》のような一月二十一日払暁五時の空気に、嫋嫋《じょうじょう》とした振動を伝えたのである。
 それも、ホンの一二分程の間で、しかも低い憂鬱な鳴り方であったが、その音が偶然便所に起きた検事の耳に入った。すると、俊敏な検事の神経にたちまち触れたものがあったのだ。と云うのが大正十年の白露人保護請願で、とりわけその中に、――当時|赤露非常委員会《チェカ》の間諜《スパイ》連が企てていた白系巨頭暗殺計画に備えて、時刻はずれの鳴鐘を以って異変の警報にする――と云う条項があったからである。そこで、検事はさっそく付近の法水に電話をかけ、聖堂の前で落ち合うことになった。前日の夕方から始まった烈風|交《まじ》りの霙《みぞれ》が、夜半頃に風が柔らぎ、今ではまったく降りやんだのであるが、依然厚い雪雲の層に遮《さえぎ》られて、空のどこにも光がない。その中を歩んで行くうち、ふと正門近くで法水は不思議なものにぶつかった。小さな人型《ひとがた》をした真黒な塊が、突然横町から転がり出したのである。法水がほとんど反射的に誰何《すいか》すると、その人型は竦《すく》んだように静止して、しばらくは荒い呼吸の喘《あえ》ぎが聴えていたが、やがて、つかつか前に進み寄ってきた。まず、身長三尺五寸程と思われる小児の姿が法水の眼に映ったのであるが、なんと意外なことには、次の瞬間幅広い低音《バス》が唸《うな》り出した。
「へい、私はヤロフ・アヴラモヴィッチ・ルキーン。」露西亜《ロシア》人だ――いやに落つき払っていとも流暢な日本語で、「舞台の名は
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