はないけども、」そう云って、検事は扉の前方の床に、わずか飛散している血粉を指摘した。「して見ると、始末の不完全な手で、犯人はよほど複雑な動作をしたと見えるね。」
 そこへドヤドヤ靴音がして、外事課員まで網羅した全機能を率いて、捜査局長|熊城卓吉《くましろたくきち》が肥躯《ひく》を現わした。法水は頓狂な声をあげて、
「いよう、コーション僧正!」
 しかし、熊城の苦笑は半ば消えてしまい、側のルキーンを魂消《たまげ》たように瞶《みつ》めていたが、やがて法水の説明を聴き終ると容《かたち》を作って、
「なるほど、純粋の怨恨以外のものじゃない。手口に現われた特徴も、犯人が相当の力量を具えた男――と云う点に一致しているよ。」ともったいらしく頷《うなず》いた。そして、さっそく部下に構内一帯に渉る調査を命じたが、程なく堂外の一隊を率いた警部が、ひどく亢奮《こうふん》して戻ってきた。
「実にどうも、得体が判らなくなりまして。最初入った貴方《あなた》がた三人以外に、足跡がないのですからな。昨夜《ゆうべ》は二時頃に降りやんでいるのですから、凍った霙《みぞれ》の上についたものなら、われわれでなくとも子供でさえ判らなけりゃなりません。それから兇器は、裏門側の会堂から二十|米《メートル》程離れた所で、落ちていた紙鳶《たこ》を突き破っていたのです。」
 そう云って、警部は一振りの洋式短剣《ダッガー》を突き出した。銅製の鍔《つば》から束《つか》にかけて血痕が点々としていて、烏賊《いか》の甲型をした刃の部分は洗ったらしい。それがラザレフの所有品で、平生扉の後の棚の上に載せてあることが、すぐルキーンによって明らかにされた。そして、紙鳶は比較的最近のものらしい二枚半の般若《はんにゃ》で、糸に鈎切《かんぎり》がついていた。
「まさか、使者神《マーキュリー》の靴を履《は》いたわけじゃあるまいよ。」法水が動じた気色を見せなかったように、他の二人も、足跡を残さずにすむ脱出径路と不可解な兇器の遺留場所を解くものが、漠然と暗示されているような気がして、必ずや鐘楼内から、それを鑑識的に証明するものが、現われるに違いないと信じていた。だから、熊城はむしろ部下の狼狽振りに渋面を作ったほどで、さっそく法水に姉妹への訊問を促した。
 扉が開かれてまず眼に映ったのは、この室の構造がラザレフの室と同一であると云うことだった。その時
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