かく、斯んな田舎警察にも、万代不朽の調書を残してやってくれ給え」
その時、三十恰好のずんぐりした男が入って来ると、真積氏は、その男を杏丸医学士といって紹介した。
杏丸は、まるで浮腫でもあるような、泥色の黄ばんだ皮膚をしていて、見るからに沈欝な人相だった。然し法水は、まず現場検証以前に、失楽園の本体と三人の不思議な生活を杏丸の口から聴くことが出来た。
「院長が、坐魚礁の上に失楽園の建物を建設してから、今月で恰度満三年になりますが、その間完全屍蝋の研究が秘密に行われておりました。つまり、防腐法と皮鞣《ひじゆう》法、それからマルピギ氏粘液網保存法とが、主要な研究項目だったのですよ。そして、その間私と河竹は、高給を餌にされて、失楽園内部の出来事について、一切口外を禁ぜられておりました。で、この一月に完成された研究はともかくとして、ここに何より先にいわなければならない事があります。というのは、過去三年を通じて、失楽園にもう一人、秘密の居住者があったという事なんです」
と杏丸は懐中から、罫紙の綴りに、「番匠幹枝狂中手記」と、題した一冊を取り出した。
「とにかく、院長が書いたこの序文を読めば、院長という人物がどんなに悪魔的な存在だったかまた、病苦に歪められたその耽美思想が、どういう凄惨な形となって現われたかは、詳しくお判りになりましょう。そして、これが完全屍蝋の研究以外に、失楽園で過された生活の全部だったのです」
宝相華と花喰鳥の図模様で飾られた表紙を開くと、法水の眼は忽ち冒頭の一章に吸い付けられて行った。
――××六年九月四日、余は岩礁の間より、左眼失明せる二十六、七歳の美《うる》わしき漂流婦人を救えり。所持品により、本籍並びに番匠幹枝《ばんしょうみきえ》という姓名だけは知りたれども、同人は精神激動のためか、殆んど言語を洩らさず、凡てが憂欝狂《メランコリア》の徴候を示せり。されど、時偶《ときたま》発する言葉により、同人が小机在の僧侶の妻にして、夫の嫉妬のために左眼を傷つけられ、それが引いては、入水の因をなせしこと明らかとなれり。そのうち、余の心は次第に幹枝に惹かれ行き、やがて狂女と同棲生活に入りしこそ浅ましけれ。
――されど、余には一つの計画あり、まず、その階梯を踏まんがため、眼科出の杏丸に命じて、幹枝の左眼に義眼手術を施せり。しかして、その手術中彼を強要して、生
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