uいいえ、竪琴《ハープ》の前枠に手をかけていて、私は、そのまま凝《じ》っと息を凝《こ》らしておりました」と伸子は躊《ため》らわずに、自制のある調子で云い返した。「ですから、長絃だけが鳴ったと云うのなら、また聞えた話ですけど……。とにかく、貴女様の寓喩《アレゴリー》は、全然実際とは反対なのでございます」
 その時旗太郎が、妙に老成したような態度で、冷たい作り笑いを片頬《かたほほ》に泛《うか》べた。「さて、その妖冶《ようや》な性質を、法水さんに吟味して頂きたいですがね。――そもそも、あの時|竪琴《ハープ》の方から近づいてきた、気動というのが何を意味するか。ところが、その楽音嚠喨《クリングクランゲ》たるやです。美しい近衛胸甲騎兵《ガルド・キュイラシエール》の行進ではなくて、あの無分別者ぞろいの、短上衣《ヤッケ》をはだけて胸毛を露き出して、ぷんぷん鹿が落した血の跡を嗅ぎ廻るといった、黒色猟兵《シュワルツ・イエガー》だったのです。いやきっと、あいつは人肉《フライッシュ》が嗜《す》きなんでしょうよ」
 そうして、追及される伸子の体位は、明らかに不利だった。その残忍な宣告が、永遠に彼女を縛りつけてしまったかと思われたが、法水はちょっと熱のあるような眼を向けて、
「いや、たしかそれに、人肉《フライッシュ》ではなく魚《フィッシュ》だったはずですがね。しかし、その不思議な魚が近づいて来たために、かえってクリヴォフ夫人は、貴女がたの想像とは反対の方向に退軍を開始したのでしたよ」と相変らず芝居げたっぷりな態度だったけれども、一挙にそれが、伸子と二人の地位を転倒してしまった。
「ところで、装飾灯《シャンデリヤ》が消えるほんの直前でしたが、その時たしか伸子さんは、全絃にわたってグリッサンドを弾いておられましたね。すると、その直後灯が消された瞬間に、思わず機《はず》みを喰って、全部のペダルを踏みしめてしまったのです。実は、その際に起った唸《うな》りが、ちょうど踏んでいったペダルの順序どおりに起ったものですから、それが、迫って来る気動のように聞えたのですよ。つまり、韻のまだ残っているうちにペダルを踏むと、竪琴《ハープ》には唸りが起る。――貴方がたは、あの悪ゴシップのおかげで、そんな自明の理を、僕から講釈されなければならんのですよ」と瓢逸《ひょういつ》な態度が消えてしまって、法水は俄然厳粛な調子に変
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