、けれど、元来|把手《ハンドル》による発射ではなく、また、ラミイの変質した粉末も、ついに弦の中から洩れることがなかったのだ。ああクリヴォフ――あのカウカサス猶太人《ジュウ》は、たしかグリーン家のアダの故智を学んだのだ。しかし、最初は恐らく、背長椅子《バルダキン》に当てるくらいのところだったろう。ところが、その結果偶然にも、あの空中|曲芸《サーカス》を生んでしまったものだ」
 まさに法水の独擅場《どくせんじょう》だった。しかし、それには一点の疑義が残されていて、それをすかさず検事が衝《つ》いた。
「なるほど、君の理論には陶酔する。また、それが現実にも実証されている。しかし、とうていそれだけでは、クリヴォフに対する刑法的意義が十分ではないのだ。要するに、問題と云うのは、その二重の反射に必要な窓の位置にあるのだよ。つまり、クリヴォフか伸子か――そのどっちかの道徳的感情にある訳じゃないか」
「それでは、伸子の演奏中に、幽霊的な倍音を起させたのは……。事実支倉君、あの間に、鐘楼から尖塔へ行く、鉄梯子を上った者があったのだ。そして、中途にある、十二宮の円華窓《えんげまど》に細工して、あの楽玻璃《グラス・ハーモニカ》めいた、裂罅《ひび》を塞《ふさ》いでしまったのだよ」と法水は峻烈な表情をして、再び二人の意表に出た。ああ、黒死館事件最大の神秘と目されていた――あの倍音の謎は解けたのだろうか。法水は続けた。「しかし、その方法となると、一つの射影的な観察があるにすぎない。つまり、鐘楼の頭上には円孔が一つ空いていて、その上が巨きな円筒となり、その左右の両端が十二宮の円華窓になっている。その円筒の理論を、オルガン管《パイプ》にさえ移せばいいのだよ。何故なら、両端が開いている管《パイプ》の一端が閉じられると、そこに一音階《ワン・オクターヴ》上の音が、発せられるからなんだ。しかし、それ以前に犯人は、鐘楼の廻廊にも現われていた。そして、風精《ジルフス》の紙片を貼り付けた――三つあるうちの中央の扉《ドア》を、秘《こっ》そりと閉めたのだったよ。何故なら支倉君、君はレイリー卿が、この世には生物の棲《す》めない音響の世界がある――と云った言葉を知っているかね」
「なに、生物の棲めない音響の世界※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と検事は眼を円くして叫んだ。
「そうなんだ。それが、実に凄愴《せいそう》をき
前へ 次へ
全350ページ中280ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング