A彼女を安堵《あんど》させるためにまず前提をおいてから、「ところで、貴女はあの夜、神意審問会の直前にダンネベルグ夫人と口論なさったそうですが」
「ええ、しましたとも。ですけど、それについての疑念なら、かえって私の方にあるくらいですわ。私には、あの方が何故お怒りになったのか、てんで見当がつかないんですの。実は、こうなのでございます」と伸子は躊《ためら》わず言下に答えて、いっこうに相手を窺視《きし》するような態度もなかった。「ちょうど晩食後一時間頃のことで、図書室に戻さねばならないカイゼルスベルヒの『聖《セント》ウルスラ記』を、書棚の中から取り出そうとした際でございました。突然|蹌踉《よろめ》いて、持っていたその本を、隅にある乾隆硝子《けんりゅうガラス》の大花瓶に打ち当てて、倒してしまったのでございます。ところが、それからが妙なんですわ。そりゃひどい物音がしましたけれども、別にお叱りをうけるというほどの問題でもございません。それなのに、ダンネベルグ様がすぐとお出でになって……でございますもの。私には未だもって、すべてが判然と嚥《の》み込めないような気がいたしております」
「いや、夫人はたぶん貴女《あなた》を叱ったのではないでしょうよ。怒り笑い嘆く――けれども、その対象が相手の人間ではなく、自分がうけた感覚に内問している。そういうように、意識が異様に分裂したような状態――それは時偶《ときたま》、ある種の変質者には現われるものですからね」と法水は、伸子の肯定を期待するように、凝然《じいっ》と彼女の顔を見守るのだった。
「ところが、事実はけっして……」と伸子は真剣な態度で、キッパリ否定してから、「まるであの時のダンネベルグ様は、偏見と狂乱の怪物《ばけもの》でしかございませんでした。それに、あの尼僧のような性格を持った方が、声を慄《ふる》わせ身悶《みもだ》えまでして、私の身を残酷にお洗いたてになるのでした。馬具屋の娘……賤民《チゴイネル》ですって。それから、竜見川《たつみがわ》学園の保姆《ほぼ》……それはまだしもで、私は寄生木《やどりぎ》とまで罵《ののし》られたのですわ。いいえ、私だっても、どんなに心苦しいことか……。たとえ算哲様生前の慈悲深い思召《おぼしめ》しがあったにしても、いつまで御用のないこの館に、御厄介になっておりますことが、どんなにか……」と娘らしい悲哀《かなしみ》
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