か――その推定すら困難なほどに、難解をきわめたものだった。しかし、その凄惨な顕微鏡《ミクロ》模様から離れた法水の眼は、期せずして検事の視線と合した。そして、暗黙のうち、ある慄然《りつぜん》としたものを語り合わねばならなかった。なんとなれば、その創の形が、まさしく降矢木家の紋章の一部をつくっている、フィレンツェ市章の二十八葉橄欖冠にほかならないからであった。
[#二十八葉橄欖冠の図(fig1317_01.png)入る]

    二、テレーズ吾《われ》を殺せり

「どう見ても、僕にはそうとしか思えない」と検事は何度も吃《ども》りながら、熊城《くましろ》に降矢木家の紋章を説明した後で、「何故犯人は、息の根を止めただけでは足らなかったのだろうね。どうしてこんな、得体の判らぬ所作《しぐさ》までもしなければならなかったのだろう?」
「ところがねえ支倉《はぜくら》君」と法水《のりみず》は始めて莨《たばこ》を口に銜《くわ》えた。「それよりも僕は、いま自分の発見に愕然《がくっ》としてしまったところさ。この死体は、彫り上げた数秒後に絶命しているのだよ。つまり、死後でもなく、また、服毒以前でもないのだがね」
「冗談じゃないぜ」と熊城は思わず呆れ顔になって、「これが即死でないのなら、一つ君の説明を承《うけたまわ》ろうじゃないか」といきり立つのを、法水は駄々児を諭すような調子で、
「ウン、この事件の犯人たるや、いかにも神速陰険で、兇悪きわまりない。しかし、僕の云う理由はすこぶる簡単なんだ。だいたい君が、強度の青酸《シヤン》中毒というものをあまり誇張して考えているからだよ。呼吸筋は恐らく瞬間に痳痺[#「痳痺」はママ]してしまうだろうが、心臓が全く停止してしまうまでには、少なくとも、それから二分足らずの時間はあると見て差支えない。ところが、皮膚の表面に現われる死体現象と云うのは、心臓の機能が衰えると同時に現われるものなんだがね」そこでちょっと言葉を切って、まじまじと相手を瞶《みつ》めていたが、「それが判れば、僕の説に恐らく異議はないと思うね。ところで、この創《きず》は巧妙に表皮のみを切り割っている。それは、血清だけが滲み出ているのを見ても、明白な事実なんだが、通例生体にされた場合だと、皮下に溢血《いっけつ》が起って創の両側が腫起してこなければならない――いかにも、この創口にはその歴然としたもの
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