ィ》り立てる心算のように思われた。しかし、法水は終日書斎に閉じ籠《こも》っていて、その日はとうとう黒死館を訪れなかったが、恐らくそれは、遺言状を開封させるために、福岡から召還した押鐘博士の帰京が、その翌日の午後になった事と、また一つには、津多子夫人の予後が未だ訊問に耐えられそうもないという――以上の二つが決定的な理由のように思われた。けれども、それを従来《これまで》の例に徴してみると、法水が静かな凝想の中で、何か一つの結論に到達しようと試みているのではないかと、推測されるのだった。勿論その日の午前中に、法医学教室から剖見の発表があった。その中から要点を摘出してみると、ダンネベルグ夫人の死因は明白な青酸中毒で、薬量も、驚くべきことには〇・五と計測されたが、肝腎《かんじん》の屍光と創紋とは、いずれも生因不明であって、単に蛋白尿が発見されたという一事に尽きていた。それから易介になると、絶命推定時刻は法水の推定どおりだったけれども、異様な緩性窒息の原因や、絶命時刻と齟齬《そご》している脈動や呼吸などについては、まさに甲論|乙駁《おつばく》の形で、わけても、易介が傴僂《ポット》病患者であるところから、その点に関した偏見が多いようだった。なかにも、もはや古典に等しいカスパー・リーマンの自企的絞死法などを持ち出してきて、死後|切創《きりきず》が加えられる以前に、易介は自企的窒息を計ったのではないか――などという、すこぶる市井の臆測に堕したような異説も現われたくらいである。ところが、その翌朝、すなわち一月三十日、法水は突然各新聞通信社に宛てて、支倉検事と熊城捜査局長立会の下に、易介の死因を発表する旨を通告した。
法水の書斎はきわめて簡素なもので、徒《いたず》らに積み重ねた書籍の山に囲まれているだけであったが、それでも、その存在は相当世間に鳴り響いていた。と云うのは、その壁面を飾るものに、現在は稀覯《きこう》中の稀覯ともいう銅版画で、一六六八年版の「倫敦《ロンドン》大火之図」が掲げられているからだった。いつもならそれを背にして、彼の最も偏奇な趣味である古今東西の大火史を、滔々《とうとう》と弁じ立てるのだが、その日は法水が草稿を手に扉を開くと、内部《なか》は三十人ほどの記者達で、身動きも出来ぬほどの雑沓《ざっとう》だった。法水は騒響《ざわめき》の鎮まるのを待って、草稿を読みはじめた。
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