人形があるのです。だいたいプラーグの万国操人形聯盟《インターナショナル・リーダ・オヴ・マリオネット》にだって、最近『ファウスト』が演ぜられたという記録はないでしょうからな」
「ファウスト※[#感嘆符疑問符、1−8−78] ああ、あのグレーテさんが断末魔に書かれたと云う紙片の文字のことですか」レヴェズ氏は力を籠《こ》めて、乗り出した。
「そうです。最初の幕に水精《ウンディネ》、二幕目が風精《ジルフェ》でした。いまもあの可憐な|空気の精《ジルフェ》が、驚くべき奇蹟を演じて遁《のが》れ去ってしまったところなんですよ。それにレヴェズさん、犯人は Sylphus《ジルフス》 と男性に変えているのですが、貴方は、その風精《ジルフス》が誰であるか御存じありませんか」
「なに、儂《わし》が知らんかって※[#感嘆符疑問符、1−8−78] いや、お互いに洒落《しゃれ》は止めにしましょう」レヴェズ氏は反撃を喰ったように狼狽《うろた》えたが、その時、不遜をきわめていたクリヴォフ夫人の態度に、突如《いきなり》竦《すく》んだような影が差した。そして、たぶん衝動的に起ったらしい、どこか彼女のものでないような声が発せられた。
「法水さん、私は見ました。その男というのを確かに見ましたわ。昨夜私の室に入って来たのが、たぶんその風精《ジルフス》ではないかと思うんです」
「なに、風精《ジルフス》を」熊城の仏頂面が不意に硬くなった。「しかし、その時|扉《ドア》には、鍵が下りていたのでしょうな」
「勿論そうでした。それが不思議にも開かれたのですわ。そして、背の高い痩せぎすな男が、薄暗い扉《ドア》の前に立っているのを見たのです」クリヴォフ夫人は異様に舌のもつれたような声だったが語り続けた。「私は十一時頃でしたが、寝室へ入る際に確かに鍵を下しました。それから、しばらく仮睡《まどろ》んでから眼が覚めて、さて枕元の時計を見ようとすると、どうした事か、胸の所が寝衣《ねまき》の両端をとめられているようで、また、頭髪《かみのけ》が引っ痙《つ》れたような感じがして、どうしても頭が動かないのです。平生髪を解いて寝る習慣がございますので、これは縛りつけられたのではないかと思うと、背筋から頭の芯までズウンと痺《しび》れてしまって、声も出ず身動《みじろ》ぎさえ出来なくなりました。すると、背後《うしろ》にそよそよ冷たい風が起って、滑る
前へ 次へ
全350ページ中132ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング