と熊城は何もかも夢中になって、伸子の肩口を踏み躙《にじ》ったが、その時法水が中央の扉を、ほとんど放心の態で眺めているのに気がついた。卵色の塗料の中から、ポッカリ四角な白いものが浮き出ていた。近寄ってみると、検事も熊城も思わず身体が竦《すく》んでしまった。その紙片には……
Sylphus《ジルフス》 Verschwinden《フェルシュヴィンデン》(風精《ジルフス》よ消え失せよ)
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第三篇 黒死館精神病理学
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一、風精《ジルフス》……異名《エーリアス》は?
Sylphus《ジルフス》 Verschwinden《フェルシュヴィンデン》(風精《ジルフス》よ。消え失せよ)
鐘鳴器《カリリヨン》室に三つあるうちの、中央の扉高くに、彼等の凝視を嘲り返すかのごとく白々しい色で、再びファウストの五芒星呪文の一句が貼り附けられてあった。のみならず、Sylphe《ジルフェ》 の女性をそれにもまた男性化しているばかりでなく、再び古|愛蘭《アイリッシュ》のような角張ったゴソニック文字で、それには筆者の性別は愚かなこと毛のような髯線《ぜんせん》一筋にさえ、筆蹟の特徴を窺うことは許されなかったのである。あの緊密な包囲形をどう潜り抜けたものか、また伸子が犯人で、法水《のりみず》の機智から発した包囲を悟り、絶体絶命の措置《そち》に出たものであろうか……。いずれにしろここで、皮肉な倍音演奏をした悪魔を決定しなければならなかった。
「これは意外だ。失神じゃないか」伸子の全身をスラスラ事務的に調べ終ると、法水は熊城《くましろ》の靴をジロリと見て、「微かだが心動が聞えるし、呼吸も浅いながら続けている。それに、このとおり瞳孔反応もしっかりしてるぜ」
そう法水に宣告されてしまうと、つい今しがた此奴《こやつ》とばかりに肩口を踏み躙《にじ》った熊城でさえ、そろそろ自分の軽挙が悔まれてきた。と云うのは、勿論|鎧通《よろいどお》しを握って、|此の人を見よ《エッケ・ホモ》――とばかりにのけ反りかえっている、紙谷伸子《かみたにのぶこ》の姿体だったのである。それまでは、幽鬼の不敵な暗躍につれて、おどろと跳ね狂う、無数の波頭を見るのみであって、事件の表面には人影一つ差してこなかった。そこへ、一条の泡がスウッと立ち上っていったのだが、それが水面で砕けたと
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