解し難い謎とされている算哲博士の行状を、君に話すとしよう。帰国後の算哲博士は、日本の大学からも神経病学と薬理学とで二つの学位をうけたのだが、教授生活には入らず、黙々として隠遁的な独身生活を始めたものだ。ここで、僕等が何より注目しなければならないのは、博士がただの一日も黒死館に住まなかったと云うばかりか[#「博士がただの一日も黒死館に住まなかったと云うばかりか」に傍点]、明治二十三年には[#「明治二十三年には」に傍点]、わずか五年しか経たない館の内部に大改修を施したと云う事で[#「わずか五年しか経たない館の内部に大改修を施したと云う事で」に傍点]、つまり[#「つまり」に傍点]、ディグスビイの設計を根本から修正してしまったのだ[#「ディグスビイの設計を根本から修正してしまったのだ」に傍点]。そうして、自分は寛永寺裏に邸宅を構えて、黒死館には弟の伝次郎夫妻を住わせたのだが、その後の博士は、自殺するまでの四十余年をほとんど無風のうちに過したと云ってよかった。著述ですらが、「テュードル家|黴毒《ばいどく》並びに犯罪に関する考察」一篇のみで、学界における存在と云ったら、まずその全部が、あの有名な八木沢医学博士との論争に尽きると云っても過言ではないだろう。それはこうなのだ。明治二十一年に頭蓋鱗様部及び顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]窩《せつじゅか》畸形者の犯罪素質遺伝説を八木沢博士が唱えると、それに算哲博士が駁説を挙げて、その後一年にわたる大論争を惹《ひ》き起したのだが、結局人間を栽培する実験遺伝学という極端な結論に行きついてしまって、その成行に片唾《かたず》を嚥《の》ませた矢先だった。不思議なことには、二人の間にまるで黙契でも成り立ったかのように、その対立が突如不自然きわまる消失を遂げてしまったのだよ。ところが、この論争とは聯関のないことだが、算哲博士のいない黒死館には、相次いで奇怪な変死事件が起ったのだ。最初は明治二十九年のことで、正妻の入院中愛妾の神鳥《かんどり》みさほを引き入れた最初の夜に、伝次郎はみさほのために紙切刀《かみきりがたな》で頸動脈を切断され、みさほもその現場で自殺を遂げてしまったのだ。それから、次は六年後の明治三十五年で、未亡人になった博士とは従妹《いとこ》に当る筆子夫人が、寵愛《ちょうあい》の嵐鯛十郎という上方役者のためにやはり絞殺されて、鯛十郎
前へ 次へ
全350ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小栗 虫太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング