の像と左右に四天王が二体宛載っている。堂内で採集した指紋には、勿論推理を展開せしめるものがなかった。
「何処を見ても、埃がないですね」と法水が、怪訝そうに空闥に云うと、
「縁日の前日が掃除日でして、未だ三日許りしか経ちませんのですから、足型が残ると云う程の埃はありません。その時、此の筒提灯の中も掃除しますので」
 そう云って、空闥が両手に提げて来たのは、伸ばした全長が人間の背丈程もあって、鉄板製の口径が七寸にも及ぶ、真紅の筒提灯が二つ。蝋燭は二つ共に、鉄芯が現われる間際まで燃えていて、其処で消したらしい。法水は、此の提灯から結局何も得る所はなかった。護摩壇前の経机には、右端に般若心経が積み重なっていて、胎龍が唱えたらしい秘密三昧即仏念誦の写本が、中央に拡げられてある。杵鈴を錘に置いて開かれている面と云うのは、「五障百六十心等三重赤色妄執火」と云う一節だった。
「この一巻を始めから唱えていたとすると、此処迄に何分位|費《かか》りますね?」
「左様、二、三十分ですかな」と空闥が答えた。
「すると、八時から始めたとして、八時三十分かな※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」検事が解った様な顔をすると、
「ウン、或は、此処で屍体にしたのを、玄白堂に運び込んだのかも知れない。筒提灯が一つ加わったので、遂々天秤が水平になっちまったよ」と熊城は当惑したように云ったが、その鼻先に、法水は小さな紙包を突き出して、
「これを鑑識課に廻して、顕微鏡検査をして呉れ給え。黒い煤みたいなものなんだが、薬師三尊のうちの、月光の光背にだけ附いていたんだよ」と云ってから、
「赤と赤、火と火!」と小声で、夢見るような呟きをした。
 薬師堂の調査を終ってから池畔に出ると、法水が何時の間にか喬村の許へ使を出したと見えて、一人の刑事が一通の封書を手に戻って来た。それには、走り書で次のような文章が認められてあった。
 ――胎龍君が殺害されたとは実に意外だ。だが、それ以上驚かされたのは、僕が何時の間にか事件中の一人になっていると云う事だ。君は、柳江が僕と結婚するために胎龍君の許を去りたがっている旨を告白したと云う。如何にも、それは事実だ。事実僕は柳江を愛している。そして、二人の関係は去年の暮以来続いているのだが、それが単純な思慕以上には、一歩も踏み出していない事を断って置きたい。勿論昨夜も十時頃だったと思うが、物干から下りて、十分許り池の畔で彼女に遇った。然し、幾ら世事に迂遠な僕でも、密会に均しい場所で誰が莨なんぞ喫うもんか! 以上君の質問にお答えしておく。独身の画描きに確実な不在証明のないと云う事は、万々承知の上だけれども、正直が最善の術策なり――と信ずるが故に……。
 読み終って、法水は悔む様な苦笑をした。
「友情を裏切って、カマをかけて……そして判ったのは、柳江が云えなかったものだけだったよ。態を見ろ法水!」
 それから、彼は独りで池の対岸に行き、水門の堰を調べてから、探し物でもする様な恰好で、俯向きながら歩いていたが、やがて一本の蓮の花を手に戻って来た。
「妙なものを見付けて来たよ」そう云って、花弁を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》り取ると、中には五、六匹の蛭が蠢いていた。
「堰近くにあったのだが、どうだ良い匂いがするだろう。タバヨス木精《レセタ》蓮と云う熱帯種でね。此の花は夜開いて昼|萎《しぼ》むのだよ。そして、閉じられた花弁の中に蛭がいたとすると、犯人が池の向岸で何をしたか解る筈だがねえ」
「……」検事と熊城は、莨の灰が次第に長くなって行くけれども、遂に答えられなかった。
「判らなければ、僕の方から云おう。犯人が、池の水で血に染んだ手を洗ったのだが、その時附近に水浸しになっていた木精蓮《レセタばす》の一本があったとしたらどうだろう。勿論血の臭気を慕って蛭が群集する事は云う迄もないが、それから間もなく、犯人は浮遊物を流すために[#「犯人は浮遊物を流すために」に傍点]、水門の堰板を開いて水を流したのだ[#「水門の堰板を開いて水を流したのだ」に傍点]。すると、水面が下っただけ、木精蓮は空気中に突出する訳だろう。だから、朝になって花が閉じた時に、残った蛭が花弁に包まれてしまったのだ。だがそれは要するに、偶然現われた現象に過ぎない。堰板を開いた、犯人の真実とする目的と云うのは、玄白堂内の足跡を消すのにあったのだよ」
 ああ法水は、その水流から、何を掴み上げたのだろうか?
「判らなくては困るね。犯人でなくても、誰しも水準の異なった二つの池があれば、それを利用するだろうからね。つまり、此の池の水面を僅か程下げてから、玄白堂の右手にある、池と池溝との間の堰を切ったのだ。すると、池の水が水面の低い池溝の中へ一度に押し出すので、岩の尽きた堂の左側に来ると、ドッと地上に氾濫する。その水勢が地上の細かい砂礫を動かして、堂の左側から胎龍の背後にかけて、そこに残されている足跡を消してしまったのだよ。所が、僕が巻尺を転がして試した通りに、堂内は右手から左手にかけて勾配がついているのだから、雪駄と日和の痕がある辺までは、水が届かない。そして、あの辺は早朝だけ陽差が落ちるので、そうして濡れた跡が、屍体を発見する頃には遂に乾いてしまったのだよ」
「すると、愈《いよいよ》胎龍が何処で殺されたのか――判らなくなってしまう」熊城は瞳を据えて唇を噛んだが、検事は濃厚な懐疑を匂わせて、
「だが、犯人は何故莨を喫ったんだろうな。殺人を犯した人間が、誰が見ているかも知れないのに莨を喫うなんて……その心理が僕にはどうしても判らない。それとも、喬村が捜査官の心理を逆に利用しようとしたのかも知れないが、動機らしいものとそれだけでは、どうしても、喬村を縛る気が出ないじゃないか」
 検事は更に語を続ける。
「それから、謎はもう一つある。と云うのが、提灯の奇体な出没さ。十時に柳江が見てなかったものが、十時半には灯が入って下っていた。またそれが、十一時になると姿を消しているのだ。その三段階の出没に、一体どう云う犯人の意図が含まれているのだろう?」
「ウン、全くあれには惑殺されるよ」熊城も暗然となって呟いた。「それ迄僕は、てっきり犯人の変装だと信じていたのだが、あれに打衝って、その考えが根底から崩れてしまったよ。護摩の火の光だけなら、恐らく有効だろうがね。あのように、左右へ提灯を吊すとなると、莨の火と同様正体を曝露する惧れがある。と云って、それを屍体だとする事は、より以上現実に遠い話だからね。大体法水君、君の意見は?」
 然し法水には、何故か生気があった。
「所がねえ、僕は君達と違って、あの提灯を動かさずに観察して見たんだよ。提灯の中の蝋燭の火だけを凝然と瞶めていたのさ。すると、犯人の不思議な殺人方法が、何んとなく判って来るような気がして来たんだ。今に、天人像の後光と筒提灯との光との間に、一体どう云う不思議な機械が廻転していたものか――それが、屹度判る時期が来るに違いないよ。とにかく、今日は此れだけで打ち切って、僕によく考えさせて呉れ給え」
 そうして、事件の第一日は、謎の山積の儘で終ってしまったが、果して熊城は、柳江・喬村・朔郎の三名を拘引したのだった。

  三、二つの後光

 その夜|法水《のりみず》に三つの方面から情報が集まった。一つは法医学教室で――創傷の成因では法水の推定が悉く裏書され、絶命時刻も七時半から九時迄と云うのに変りない事。次は熊城で――朔郎が失ったと云うもう一本の鏨が発見され、その個所が、久八が蹲んでいたと云う場所の直前五|米《メートル》の池中だったと云う事。そして最後に、法水が月光の光背から採取した黒い煤様のものが、略々円形をなした鉄粉と松煙であると云う事――それは、鑑識課に依って明らかにされたのであった。所が、翌朝熊城は力のない顔をして法水を訪れた。
「いま朔郎を放免した所なんだよ。彼奴に不在証明《アリバイ》が現われたんだ。朔郎の室の垣向うが、久八の家の台所になっているだろう。八時半頃其処で立ち働いていた久八の孫娘が、朔郎が時計を直している音を聴いたと云うのだ。最初に八時を打たせて、それから半を鳴らせたので、自分の家の時計を見ると、恰度八時三十二分だったと云う。そこで、朔郎を訊して見ると、彼奴《あいつ》は迂闊《うっかり》していたと云って、躍り上った始末だ。勿論些細な点に至るまで、ピッタリ符合しているんだ。法水君、昨日朔郎の室の時計が二分|遅《おく》んでいたのを憶えているだろう。そして、あの様に重い沈んだ音を出す時計と云うのが、寺には一つもないのだからね」
 然し、法水のどんより充血した眼を見ると、夜を徹した思索が如何に凄烈を極めていたか――想像されるのだが、そうして熊城の話を聴き終ると、その眼が俄かに爛々たる光を帯びて来た。
「そうかい。すると、遂々劫楽寺事件の終篇を書ける訳だな。実は、朔郎に不在証明《アリバイ》が出るのを待っていたのだよ。ああ、それを聴いたら急に眠くなって来た。済まないが熊城君、今日は此れで帰ってくれ給え」
 その翌日だった。法水は開演を数日後に控えている、鰕十郎座の舞台裏に姿を現わした。午前中の奈落は人影も疎らで厨川朔郎は白い画室衣を着て、余念なく絵筆を動かしている。その肩口をポンと叩いて、
「やあ、お芽出度う。時に厨川君、君は昨日柱時計を修繕したのかい?」
「何んです? 僕には一向に呑み込めませんがね」朔郎は怪訝な面持で云った。
「でも、あの日から君の時計の時鳴装置が、どんな時刻にも、一つしか打たなくなった筈だがね。それが、今日君の留守中行ってみると、何時の間にか普通の状態に戻っているんだ。しかし、君は恐らく口を噤んでしまうだろうから、僕が代って云う事にしよう」と最初法水は、極めて平静な調子で云い出したのであったが、それにつれて、朔郎の唇に現われた痙攣が次第に度を昂めて行った。
「それには、最初準備行為が必要だったのだよ。君は自分の室の時計に綿様のものを支《か》って、時報を鳴らなくした筈だったね。そして、七時前に室を出て、裏木戸から薬師堂へ行ったのだが、それ以前に留守の室の時計と君の手に代るものを、柳江の書斎に作って置いたのだ。所で、君の偽造不在証明を分解しよう。まず柳江の書斎にある柱時計の長針と短針とに、安全剃刀の刃を一定の位置に貼り付けて置いたのだ。それから、時計の右手にある釘に糸を結び付けて、それを斜めに数字盤の円芯の上から、八時三十分以後に刃の合する点を通して、末端を自分の室から携えて行った携帯蓄音機の回転軸に縛り付けたのだ。蓄音機は前以って、扇形に張ってある蜘蛛糸の下へ、適宜な位置で据えてあったのだが、それにも細工がある。君は確か、速度を最緩にして、恰度二廻りで止まる程度に弾条《ゼンマイ》をかけて置いたろう。それから、送音管を外して、それを倒《さか》さまに中央の回転軸に縛り付ける。すると、発音器《サウンドボックス》が俯向くから恰度卍の一本と同じ形になるのだが、それが済むと、愈停止器を動かして回転を始めさせたのだ。勿論それだけでは、糸が盤の回転を許さないのだが、そのうち八時三十分を少し過ぎると、両針に付けられた剃刀の刃が合うから、糸がプツリと切断される。そうして、回転が始まると、発音器《サウンドボックス》の針受が上の蜘蛛糸を弾いて、あの時計に似た沈んだ音響を立てたのだよ。つまり、最初の回転で八つ[#「八つ」は底本では「六つ」]、二回目で一つ――それが三十分の報時に当ると云う訳だが、その二回で弾条《ゼンマイ》の命脈が尽きてしまったのだ」
「どうかしてますね貴方は※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」朔郎は突然引っ痙れた声で笑った。「あんな絹紐から、どうしてそんな音が出ましょう?」
「成程、十本の中で両端の二本宛は単純な絹紐だよ。所が、中の八本は本物の小道具なんだ。土蜘蛛の糸にはもう二十年此の方、電気用の可熔線《フューズ》を芯にして使っている。しかも、その中の一本には極く太目のものを君は芯にしているんだ。だから、最初八つ打ったのだが、七本
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