よ。どうだろう、この表情は聖画等の殉教者特有のものではないだろうかね。先年外遊中に、シスチナ礼拝堂の絵葉書を寄越した君なんぞは、真先にミケランジェロの壁画『最終審判』で、何か憶い出して然るべきなんだぜ。ねえ、絶望と法悦? 確かに悲壮な恍惚状態と云えるじゃないか。そして、それから、僕の仮説《セオリー》が出発しているのだよ」
「成程」検事が思わず膝を打つと、
「すると、催眠術かね?」と熊城も思わず引き入られたように叫んだ。
「いや、催眠術じゃない。と云うのは、胎龍が三月も人と遇わなかったのでも判る! 当人に気付かれずに施術出来るような術者は、恐らく寺内にはあるまい。無論、数ヵ月前に暗示して置いた後催眠現象が発したのではないかと云う懸念があるけれども、それには、胎龍に豊富な催眠経歴が必要なんだよ」と法水は、まず入念に熊城の疑惑を解いてから、彼の説を語り始めた。
「所で僕の仮説《セオリー》と云うのは、至極単純な観察から出発している事なんだ。大体君達は、この屍体を見た瞬間に何か触れたものがあった筈だよ。この不可解な無抵抗無苦痛を現わすためには、肉体を殺す前に、まず胎龍の精神作用を殺さねばならない[#「まず胎龍の精神作用を殺さねばならない」に傍点]――とは考えなかったかね。然し、そう云う超意識状態を作り出すのは、到底単一な手段では不可能な事だ。第一レトルトや力学の中にも……、勿論脳に剖見上の変化を起させる方法なんて、絶対にあり得るものではない。すると、最後に一つ想像されるのが、心因性の精神障碍を発病させる行程《プロセス》なんだ。マア空想だと笑わないで呉れ給え。よく考えれば判る事だからね。で、その去勢法なんだが……、それに非常に複雑な組織が必要だと云うのは、胎龍の精神作用を徐々に変型して行った末の最後のものを、兇器の構造とピッタリ符合させなければならないからだよ。つまり、その行程が君の云う機構であって、その結論が僕の云った悲壮な恍惚なんだ。そして、長い道程と日数を費した揚句に、とうとう犯人の破天荒な意図が成功したのだ。さぞその間に、不思議な型の歯車が喰い合ったり、独楽《こま》のような活塞子《ピストン》が動いたりした事だろうが……、そうした末に作り出された超意識が、最終の歯車と噛み合って恐怖装置を廻転させたばかりでなく、更に兇行直前の状態を、兇器が下っても中断させなかったのだよ。どうだい熊城君、君はこの理論が判るかね。つまり、この事件を解く鍵と云うのが、二つの装置を結び付ける歯車の構造にあるのだがね。また、その中に、僕等の想像さえも付かないような、不思議な兇器が隠されていると云う訳さ」そう云い終ると、急に法水は力のない吐息をついて、
「だが、そこで問題なのは、絶命と同時に果して強直が起ったかどうかなんだよ。支倉君は強直前に犯人の手が加わったのではないかと云うけれども、僕には強直が同時でないと、屍体の合掌を説明する方法が全く尽きてしまうのだ」
 熊城は晦渋な霧のようなものに打たれて沈黙したが、検事は懐疑的な眼を見据えて、
「それで、僕はあれが気になるんだよ。ホラ、像の頭から右斜かい上に五寸程の所と、左右の板壁に二つと――それを直線で結び付けると恰度屍体の頸筋辺で結び付くんだが――節穴が三つあるだろう。元より作ったものじゃないけれども、あんな所から、非常に単純な仕組で、それでいて効果の素晴らしい、何か弛緩整形装置とでも云いたいものを、犯人は考案したのではないだろうか。勿論|現在《いま》の所では空想に過ぎないのだが、実際もし強直がすぐ起っていなかったとすると、そう云ったものを当然欠いてはならないと思うよ」
「ウン、僕も先刻から気が付いているのだ。おまけに、どの孔の前にも蜘蛛の巣が破れている」法水は鳥渡当惑の色を泛べて云ったが、その顔をクルッと熊城に向けて、
「関係者を訊問して何か収穫があったかね」
「所が、動機らしいものを持った人物が一人もいない始末だが、その代り、どれもこれも、一目で強烈な印象をうける――宛然《まるで》仮面舞踏会なんだよ。然し、そう云う連中が、神経病患者の行列ではなくて、真実芝居しているのだとすると、その複雑さは君でも到底読み切れまいと思うがね。とにかく訊問してみ給え。恰度今し方、この傷口にピッタリと合う彫刻用の鏨が、同居人の厨川朔郎《くりやがわさくお》と云う洋画学生の室で発見された所なんだ」
 一同は本堂に向ったが、その途中、瀝青色をした大池の彼方に、裏手の雫石家の二階が倒影している。本堂の左端にある格子扉をあけると、四坪程の土間から黒光りした板敷に続き、次の陰気な茶の間を通って、廻り縁から渡り廊下で連なっているのが、厨川朔郎の室である。
 然し其処には、不似合に大きな柱時計と画布《カンバス》や洋画道具の外に、蔵書と蓋の蝶番が壊れた携帯蓄音機《ポータブル》があるだけで、朔郎はこの室を捜索するために、柳江の書斎に移されていた。柳江の書斎は、茶の間から廻り縁に出ず、左折して廊下を少し行った所のドン詰まりの室で、その塀向うが寺男の浪貝久八の台所になっていて、朔郎の室とは小庭を隔てて平行している。また、その廊下は、廻り縁になる角から幾つもの室の間を貫通して、本堂の僧侶出入口で行詰まっていた。つまりどの室からも直接廊下伝いに来られるのだが、昨日から今日にかけて非常に気温が低いので、障子の間は真冬のように隙がなかった。
 二人の私服に挾まれて、画室《アトリエ》衣の青年が黙然と莨《たばこ》を喫らしている。――それが厨川朔郎だった。二十四、五で美術学生らしい頭髪をし、整った貴族的な容貌の青年だが、肩から下には、炭坑夫とも見擬うような、隆々たる肉線が現われていた。
 彼は法水を見ると、莞爾《にこ》っと微笑んで、
「ヤア、漸と助かりましたよ。実は、法水さんの御出馬を千秋の思いで待ち焦がれていた所なんです。全く熊城さんの無茶な推定にはやり切れません。鏨が一本発見された位の事や、僕の室の窓外にある裏木戸から薬師堂の前へ直接出られる位の事で、僕を犯人に擬すると云う始末ですからね。それに、鏨と云われて探してみると、もう一本あったのが何時の間にか紛失しているのですが、それをどんなに述べ立てても、僕を少しも信用してくれないのですからね。では、昨夜の行動を申上げましょうか」と云って、――四時に学校から戻って、それから室でゴーガンの伝記を読んでいて、七時に夕食に呼ばれ、九時頃蒟蒻閻魔の縁日に出掛けて十時過ぎに帰宅したと云う旨を、要領よく述べ立てた。その堂々たる弁説《エロキューション》と容疑者とは思われぬ明朗さには、一同の度胆を抜くものがあった。
 その間法水は外方《そっぽ》を向いて、この室の異様な装飾を眺めていた。今入った板戸の上の長押には、土蜘蛛に扮した梅幸の大羽子板が掲っていて、振り上げた押絵の右手からは、十本程の銀色の蜘蛛糸が斜に扇形となって拡がって行き、末端を横手の円い柱時計の下にある、格子窓の裾に結び付けてあった。
「ハハァ、鉄輪の俥があった頃の趣味だね」と法水は初めて朔郎に声を掛けた。
「ええ、奥さんと云う方は、古風な大店の御新造《ごしんぞ》さんと云った型《タイプ》の人ですからね。それに、これは去年の暮私が頼まれて作ったのですが、蜘蛛糸は本物の小道具なんですよ」
「すると、君は背景描きをやっているのかい」そう云って法水が端の一本を摘むと、それは、紙芯に銀紙を被せた柔かい紐だった。
 その時窓外からボンと一つ、零時半を報らせる沈んだ音色が聴こえた。それは朔郎の室に適《ふさ》わしくない豪華な大時計で、昨年故国に去った美校教授ジューベ氏の遺品だった。然し正確な時刻は、格子窓の上にある時計の零時三十二分で、その時計には半を報ずる装置はなかったのである。
 それから、朔郎の饒舌が胎龍夫妻の疎隔に触れて行って、散々夫人の柳江を罵倒してから、最後に頗る興味のある事実を述べた。
「そう云う風に、今年に入って以来の住持の生活は、全く見るも痛々しい位に淋しいものでした。それでこの三月頃には、時々失神した様になって持っていたものを取り落したり、暫く茫然としている事などもありましたし、その頃は妙な夢ばかり見ると云って、僕にこんなのを話した事がありましたっけ。――何んでも、自分の身体の中から侏儒の様な自分が脱け出して行って、慈昶君の面皰《にきび》を一々丹念に潰して行くのです。そして全部潰し終ると、顔の皮を剥いで大切そうに懐中に入れると云うのですがね。然し、その頃からこの寺に兆とでも云いたい雰囲気が濃くなって行きました。ですから、今度の事件も、その結果当然の自壊作用だと、僕は信じているのですよ。法水さん、その空気は、今にだんだんと分かって来ますがね」

  二、一人二役、――胎龍かそれとも

 朔郎を去らせてから引続きこの室で、柳江、納所僧の空闥と慈昶、寺男の久八――と以上の順で訊問する事になった。褪せた油単で覆うた本間の琴が立て掛けてある床間から、蛞蝓でも出そうな腐朽した木の匂いがする。それが、朔郎の言葉に妙な聯想を起すのだった。
「厨川朔郎と云う男には、犯人としても、また優れた俳優としての天分もある。けれども、疚しい所のない人間と云うものは、鳥渡した悪戯気から、つい芝居をしたくなるものだがね。それに……」
「いや、あの男はもっと他に知っている事があるんだぜ」検事はそう云って法水《のりみず》の言葉を遮ったが、法水は無雑作に頷いたのみで、
「ねえ熊城君」と鏨《たがね》を示して、「これは兇器の一部かも知れないが、全部じゃない事だけは明らかだよ。と云って、兇器がどんなものだか、僕には全然見当が附かないのだが」
 それから、彼は窓の障子をあけて、土蜘蛛の押絵をあちこちから眺めすかしていたが、突然《いきなり》背伸びをして、右眼の膜を剥ぎ取った。
「ホホウ、恐ろしく贅沢なものだな。雲母《マイカ》が使ってある。所が、左眼にはこれがないのだ。どうだね、光ってないだろう」法水がそう云った時に、静かに板戸の開かれる音がした――それが胎龍の妻柳江だった。
 柳江は過去に名声を持つ女流歌人で、先夫の梵語学者鍬辺来吉氏の歿後に、胎龍と再婚したのだった。恰好《かたち》のいい針魚《さより》のような肢体――それを包んだ黒ずくめの中から、白い顔と半襟の水色とがクッキリと浮出ていて、それが、四十女の情熱と反面の冷たい理智を感じさせる。会話は中性的で、被害者の家族特有の同情を強いるような態度がない。寧ろ憎々しい迄に冷静を極めている。法水は丁重に弔意を述べた後で、まず昨夜の行動を訊ねた。
「ハァ、午後からずうっと茶の間に居りましたが、多分七時半頃で御座いましたでしょう。主人が雪駄を突掛けて出て行った様子で御座いましたが、程なく戻って来て、薬師堂で祈祷すると云い、慈昶を連れて出掛けましたのです」
「では、あの雪駄が※[#感嘆符疑問符、1−8−78] すると、一端戻って来てから履いたのが日和なんですね」熊城は吃驚《びっくり》して叫んだ。てっきり犯人の足跡と呑み込んで、深く訊しもしなかった雪駄の跡が住持のものだとすると、一体犯人は、如何なる方法に依って足跡を消したのだろうか? それとも、接近せずに目的を果し得る兇器があったのだろうか? 然し、法水は更に動じた気色を見せなかった。
「ハハハハ熊城君、多分この矛盾は、間もなく判る筈だよ。それから奥さん、その時御主人の様子に、何か平生と変った点があったのをお気付きになりませんでしたか?」
「ハァ、別に最近の主人と変ったような所は御座いませんでしたが、どうした訳か、空闥さんの日和を履いてしまったので御座います。それから十五分程経って、慈昶が戻ったらしい咳払いを聴きましたけれども、空闥さんはその時、本堂脇の室で檀家の者と葬儀の相談をしていた様子で御座いました。主人は二、三日来咽喉を痛めて居りますので、黙祷と見えて読経の声も聴こえず、夕食にも戻りませんでした。ですから、毎夜の例で十時頃に、私が池の方へ散歩に参りました途中、薬師堂の中で見掛けましたのが、最後の姿だったの
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