相も、一つの事務的な整理に過ぎなかったのであった。
「所が、それが線香花火なんだよ。厨川君は、薬師仏の背後の壇上にある聖観音の首に、鏡を稍《やや》下向きに掛けて置き、薬師三尊の中の月光像の背後で、線香花火を燃やしたのだ。すると勿論その松葉火が鏡に映る訳だが、それを胎龍の座所から見ると、護摩の烟で拡大されて、恰度薬師仏の頭上で後光が閃いた様に見えたのだよ。と同時に、強烈な精神凝集《コンセントレーション》が起ると云う事は、心理学上当然な推移に違いないのだ。今に兜率天から劫火が下って薬師如来の断罪があるだろう――とそう云う疑念を、鋭敏な膜の様に一枚残しただけで、胎龍の精神作用を司どる瀕死の生体組織《オルガニズム》共が、一斉に作業を停止してしまったのだ。そうして、此の状態は、低い絶え絶えな経声と共に、恐らく数十秒の間続いた事だろう。その間に、厨川君は背後の物蔭に廻って、辛うじて聴き取れる経文の唱句をじいっと耳膜で数えながら、最後の――殺人具を最も効果的にする――或る一節に達するのを待ち構えていた。云う迄もなく、その時胎龍が唱えていた『秘密三昧即仏念誦』――それは、厨川君が平素から熟知していた。大体、経文には火に関する文字が非常に多いのだから、必ずしもそれに限った事はなかっただろうが、その『秘密三昧即仏念誦[#「秘密三昧即仏念誦」に傍点]』は、多分暗誦出来る程に耳慣れがしていたに違いない。それで、線香花火を燃やすに適切な時間なども、予め錯誤せぬよう、目的の一節を基礎に算出する事が出来たのだったよ。所で、愈それが到来すると、俄然胎龍の悲壮な恍惚が絶頂《クライマックス》に突き上げられ、完全に現実から離脱してしまった。と同時に兇器が下されたのだよ。で、その一節と云うのは、経机の上で開かれていた『五障百六十心等三重赤色妄執火[#「五障百六十心等三重赤色妄執火」に傍点]』と云う一句なので、その唱句が終った刹那に、突如胎龍の頭上に赤色妄執火が下ったのだ。と云うのは、背後から厨川君が例の赤い筒提灯を胎龍の頭上に被せて、それを次第に縮めて行ったからだ。胎龍のその時の状態では、てんで識別出来よう道理がない。そして、提灯の縮小につれて、妄執の火が次第に濃くなって行く。勿論胎龍はその刹那に火刑――とでも直感した事だろうが、それを反覆する余裕もなく、ひたすらこの恐怖すべき符合のために、脆弱な脳組織が
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