kじゃない。常套《じょうとう》を嫌う君の趣味は、いつもながらの事だが、然し、隠伏奏楽所《ヒッヅン・オーケストラ》の入口と云えば、下手の遙か外れじゃないか。そして、そこと奈落の壁には、ほんの腿が入る位の丸窓が二つ三つ明いているに過ぎないのだ。だから、道具方が開閉器《スイッチ》室に入るのを、見定めてからだと、彼処《あすこ》へ行くまでに、時間の裕《ゆと》りがない。第一君は、刺されたのが奈落の中央だと云う事を、忘れているらしいね」
「そうなるかねえ」
法水は、嘲《せせ》ら笑うような響きを罩めて云った。
「知っての通り、屍体の顔は至極平静な表情をしている。所が、奇妙な事には、眼球が非道く突き出ているんだ。そこに、あの奏楽所からでないと行えない、一つの徴候が含まれているんだよ。ねえ熊城君、幡江が一気に咽喉をかき切られた場所と云うのは、実を云うと、奈落の中央ではないのだ――その端にあったのだよ。つまり、舞台から奈落に落ち込んで行く間は、身体がくの字なりになり、胸が圧されて、非道く窮屈な姿勢だったに相違ない。所が、漸《ようや》く半身が奈落に入ると、胸が寛《ゆる》やかになって、一時に溜り切った息を吐き出すだろうからね。そこへ、奏楽所の小窓から手が差し伸べられて、頸動脈も迷走神経も、幡江はともども、一文字に掻き切られてしまったのだよ。何故なら、縊死者《いししゃ》の眼を見ても判る通りだが、激しい息を吐く際には、脳が膨張するので、眼球がそれに圧されて、突き出てしまうのだ。また、犀利な刃物を、非常な速力で加えた場合には、血管の断面が、一時は収縮するけれども、やがて内部の圧力が高まるにつれて、傷口からドクドクと吹き出て来るのだ。つまり熊城君、その二つの理論で、奈落の中央から血が滴り始めた理由が判るじゃないか。それから次に云いたいのは、あの妖術のような震動が、どうして起されたか――なんだ」
と息の間を置かずに、法水は云い続けた。
「たしかに、あれからうけた印象は、悽愴の極みだったよ、まさにその超自然たるや、力学の大法則を徹底的に蹂躪している。然し、あの現象は、この建築固有のもので、決して人の手で行われたのではない。当然、あの場面には起るべきだったし、ただ風間がそれを知っていて、舞台裏の注意を、自分から他に、外らそうとして利用したに過ぎない。ねえ支倉君、群衆心理の波及力には、悪疫以上のものがあ
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