R憤怒が漲って、両手をわなわなと顫わせた。が、そうしているうちに、その硬張った筋が次第に弛んで行って、何か激情を解かして行くものが、あるように思われた。
やがて、淡路は切なそうな諦めの色を現わして、
「止むを得ません。自分の無辜《むこ》を証明するためには、恩師との約束も反古にせんけりゃならんでしょう。実はあの時、僕は奈落に降りはしなかったのです」
と奈落と云う言葉を口にすると、左り眼を奇妙にビクリと瞬き、淡路は風間の存在を裏書した。そして、最後に付け加えて、
「そんな訳で、今では僕も小保内も、恩師に反いた事を後悔して居ります。そして、貴方と云う侵入者に、決して快よくない事は、今も聴いた小保内の言葉でもお判りでしょう。だが、どうして師匠が捕まるもんですか。決して決して捕まりっこありませんぞ」
遂に、法水の巧妙なカマが、淡路の口を割り、あの朦朧とした幻が、実在に移される事になった。そうして次々と、焦点面に排列されてゆく風間の姿は、最早疑うべくもないものになってしまった。
然し、法水の顔は、益々冴えないものとなって、間もなく衣川暁子が、入って来たのも気附かないほどであった。
風間九十郎の妻、幡江の母暁子は、既に二十余年も新劇のために闘い続けている。そのためか、暁子の容姿からは女らしさが失せていて、眼は落ち窪み、鼻翼には硬い肉がついて、何かしら、冷酷な感情と狂熱めいた怖しさを覚えるのだった。
彼女は座につくと、胸をせり上げ、荒々しい語気を吐いた。
「どうしたって云うんでしょう。あのメデアみたいな男が、捕まらないなんて。彼奴は、自分の目的のためなら、それが吾が子だって、殺し兼ねませんわ。私、あの男の眼も胸も剥り抜いてやって、いっそ片輪にしてしまいたいんですの」
「いや、僕は決して、そうとは信じませんね」
法水は強く否定して、今までにない厳粛な調子になった。
「そうなったら第一、人間生活の鉄則がどうなってしまうのでしょう。父と娘《こ》――その間には無意識ですが、極く微妙な×××な結合があるのです。いっそこの事件は、父に依っては絶対に行えないものだ[#「父に依っては絶対に行えないものだ」に傍点]――と云いましょうか」
「では、父でないとすると」
暁子は冷やかに云ったが、顔には包むにも包み了せようのない、憎悪の波が高まって行った。
「ですから、いま貴方が云われたメデ
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