アの声にハチロウが続き、
「オジチャン、涼しくなってきたよ。もう、じきに日本へいけるね」
 しかし、渦は依然としておなじ方向へ巻いている。空気は、湿潤高熱、湯気のようである。けれど二人は、この熱気のために気が可怪《おか》しくなったのではないのだ。
 キューネが、この湿熱環に堪えるため、窮通の策をほどこした。それが、もしも成功すれば起死回生を得る。
「うまく往ってくれ。ただハチロウのため、俺はそう祈る」
 キューネが、しだいに朦朧となる頭のなかで叫んでいた。
「おれは、この湿熱環をいかに凌ぐか、考えたのだ。しかしそれには、毒をもって毒を制すよりほかにない。この摂氏四十五度もある大高温のなかにいれば、まずなにより先に気が可怪しくなってくる。
 しかしその前に、こっちから進んで人工の狂気をつくったら、どうだ。一時、この高温を感じないように気を可怪しくさせ……そのまま湿熱環を過ぎて緩和圏に出たとき……ハッと眼醒めるようにしたら……」
 それが、いま三人が嗅いでいる“Cohoba《コホバ》”の粉だ。これは元来ハイチ島の禁制物、“Piptadenia《ピプタデニア》 peregrina《ペレグリナ》”という合歓科の樹の種だ。土人は、そのくだいた粉を鼻孔に詰めて吸う。すると、忽ちどろどろに酔いしれて、乱舞、狂態百出のさまとなるのだ。いま、その“Cohoba《コホバ》”の妖しい夢のなかで、独木舟《プラウー》は成否を賭け飛沫をあびながら走っている。
 それから、渦中をゆくことなん時間後のことだろう。ふと、外界が朦朧と見えてきたと思うと、頬にあたる熱気の感じがちがう。オヤッ、と、キューネがふと横をむくと、舟は、大岩礁に桁先をはさんで停っている。
 島だ――と彼は歓喜の声をあげた。独木舟《プラウー》はついに湿熱環を突破し、緩和圏中の一島についたのである。

         *

 折竹は、そこまで話してふと口を休めた。そして、隣室から手紙のようなものを持ってきて、
「これからは、キューネの手紙を見たほうがいいだろう。簡単だが、僕の話よりも切々と胸をうつよ」
 という。

         *

 その島は、周囲八マイルもあるだろうか。ながらく外海と絶縁していたため、ひじょうに珍らしい生物がいる。その一つが、“Sphargs《スファルギス》”だ。鳴く亀である。亀が声を発するとは伝説だけで
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