る鰡群がいないことになる。従って、東京や東海道方面で、からすみをこらしえる話をあまり耳にしないのである。少なくとも、広くは世間に知られていない。
ところが、やはり太平洋沿岸方面にも、子持ち鰡の群れが通過する場所は分かっているのだ。それは伊豆半島の南端|石廊岬《いろうざき》から大瀬あたりへかけての海である。この辺へくる鰡は、北日本の方から次第に下《くだ》ってきて、房州から東京湾あたりの群れを集め、さらに相模湾を加えて伊豆半島の東岸を南下、下田から駿河へ向かって、西に曲がるものと見える。
そして、この群れが下田から西に向かうと、あの海岸線に沿って冬の海を次第次第に旅行するのだが、鰡という魚は妙な習性を持っていて、海岸線に従って克明に旅行する。だから入口の狭い湾に出会うと、その入口からなかへ入って湾内を一周し、再び狭い入口を出て次へ次へと海岸線へ沿って歩くのだ。
その習性を捉えて、南豆長津呂の漁師は、鰡が湾内へ入ったとみると、狭い入口を網で塞《ふさ》いで外洋へ出られぬようにし、これを根こそぎ掬いとるのである。けれど、なかなかもって漁師の計画通りにはいかない。
鰡は、随分要心深いのだ。大群は、いきなり盲滅法界に湾内へ泳ぎ込んでくるのではないのである。
あたかも規律ある軍隊が行軍するように、まず先頭に一尾の鰡を泳がせ、次に三尾の一群が、次に七尾の一群、次に十五尾の一団というふうに、前衛を遠く泳がせて本隊はあとの方から、警戒充分の態勢を取って泳いでくる。
そこで、まず一尾の前衛が湾の入口へ泳ぎついて安全とみれば、湾内へ入る。続いて第二軍、第三軍が入り、最後に本隊が入るという順序になるのだけれど、もし少しでも物騒と見れば、沖へ逃げだして湾内へは入らない。もちろん本隊は、軽挙を慎むのだ。
漁師は、鰡の大群の進行振りを山の上から監視しているのである。うまく、鰡の大群が湾内へ入ったとなると、入口に張って置いた網の引き手を引いて口を締めてしまい、そこで盤木か鐘を鳴らして、村中の漁師に報《し》らせることにしている。
だが、鰡の方が一足先に山の上にいる番人の姿を発見すると、彼らは一目散に逃げ出してしまうのだ。湾口の網を締めるいとまのないほど、早い速力で姿を晦《くら》ましてしまう。
なぜそんな素晴らしい速力を持っているかというと、鰡は他の魚に殆ど類を見ないというトンボ返りの術を知っているのだ。どんな魚類でも方向転換するとき、いかに急いだからといったとて、一度前方へ半円を描かないと、後方へ頚《くび》を向ける動作はやれないのである。
ところが、この鰡君はそんな手数をかけない。物に驚いて、逸走の動作に移るとき、からだをそのまま、トンボ返りというのか、角兵衛の翻筋斗《もんどり》というのか、情勢に支配されないでうしろへくるりとまわり、勢い込めて逃げるからだ。
この魚と同じに、トンボ返りのやれる奴は、九州有明湾に棲んでいるムツゴロウという沙魚《はぜ》の一種だけであると、私の友達が話したが、果たしてどんなものだろう。
湾内へ泳ぎ込んだ鰡群を首尾《しゅび》よく漁《と》ると、漁師はそのうちから、腹に卵を抱えているものだけを選びだして、沼津へ送るのである。沼津には、技術秀逸なからすみ製造工場がある。そこで、卵を立派なからすみに仕上げて、これを長崎へ移出するのだそうだ。
長崎ではそれに長崎産の商標を貼って、全国へ売りだすのであるという。ちょうどこれは桐生や足利産の丸帯やお召を、一度京都へ運んで行って、これを西陣織として商標を貼るのと同じであろう。
近年、九州五島あたりは、鰡の通過が少なくなったために、こんな手段をやるらしいのだが、沼津製のからすみが、そんなに上等であるならば、沼津産は沼津産として売りだしたらば、よろしいではないか。
それは、ともかくとして伊豆半島からさらに西へ行った鰡群は、どこを目ざすのか。それが分からない。石廊岬の突端で、姿を没した鰡群は駿河湾の真ん中へ出てしまうのか、それとも伊豆七島の方の太平洋へ旅するのか、仲木や松崎の方へは姿を見せないという。
なんとなく、からすみで一杯やりたくなった。
底本:「垢石釣り随筆」つり人ノベルズ、つり人社
1992(平成4)年9月10日第1刷発行
底本の親本:「釣随筆」市民文庫、河出書房
1951(昭和26)年8月発行
初出:「釣趣戯書」三省堂
1942(昭和17)年発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年7月2日作成
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