っていた。
 かくして、寛延二年正月酒井忠恭は播州へ転封となり、その後へ松平大和守朝矩が来たり、この厩橋城へ入ったのである。その頃は、厩橋城廓の崩潰が甚だしい最中で、殿様の朝矩は危険で居堪らなくなり、本丸から三の丸へ引っ越さねばならぬありさまであったという。
 だが利根の激流は年々歳々、勢いを増してきて、城壁は崩れて底止《ていし》するところを知らない。ついに、三の丸も危なくなった。
 そこで、朝矩は在城僅かに十九年にして明和五年三月武州川越城へ移り、厩橋には陣屋を置いて分領としたのである。関東の四平城の一つとして名高かった厩橋城も、松平氏が川越へ避難してから廃城となり、その後十九年間、城内は荒れるに任せ、昔の偉観なく廃墟の姿となったのである。
 従って、厩橋の城下もさびれてしまった。多くの藩士はすべて川越へ去ったので、市中の商人はひどく衰え、町家は年と共に疲弊して町のなかへ田や畑が現われるという状態となった。市中へ、一つ目小僧や、大入道が散歩にでかけて、人々に腰を抜かせたのもこの頃だ。
 再築の工事がはじまったのは、明治維新から三、四年前の、元治元年五月十三日で、竣工したのが、慶応三年一月二日であるから、城が出来あがると間もなく、僅か一年ばかりで廃藩となったわけである。
 大きな城が九十九年も少しの手入れもすることなく、棄て置かれては、荒れに荒れて昼なお暗い叢林や身丈を隠す草原ができて、相馬の古御所を彷彿させるに充分であったのであろう。
 そんな次第で、荒れた城内は狸と狐と雉子の巣となって、これが競って厩橋市中へ化けて出た。廃藩置県になってからは、城の裏側の利根の急流に臨んだ崖の上へは、県営の牢屋ができて、そこは明治初年に白銀屋文七が、遊人度胸を揮ったところであるが、その付近一帯が、また薄気味悪い場所となったのである。
 あたり一面、葭《よし》と葦《あし》が生えて足の踏み入れようもない。そこへ、どこから来たか大蛇が移り住んだ。私の父は少年の頃、村の友だちと共に、その近くへ草刈りに行ったが、まことに恐ろしい場所であったと、私に語ったのを記憶している。
 父の友人の一人は、その牢屋の近くで、大蛇に出逢い、毒っ気を吹きかけられ、家へはせ帰ったけれど、毒が全身にまわり、ついに死んでしまったという話だ。

  七

 厩橋城は、松平家が留守にした幕末の九十九年間に、はじめて狸
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